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堀川 基具(ほりかわ もととも)は鎌倉時代前期から後期にかけての公卿。内大臣・堀川具実の長男。堀川太政大臣を号す。 == 経歴 == 嘉禎3年(1237年)従五位下に叙爵。嘉禎4年(1238年)侍従に任ぜられ、仁治元年(1240年)従五位上に昇叙。仁治2年(1241年)右近衛少将に任ぜられた。 仁治3年(1242年)正五位下・備前介に叙任。さらにその後従四位下に叙せられ、寛元2年(1244年)従四位上・右近衛中将となった。寛元4年(1246年)正四位下・尾張介に叙任され、宝治元年(1247年)中宮権亮を兼ねた。宝治2年(1248年)に蔵人頭・左近衛中将となり、建長2年(1250年)従三位・参議に叙任されて公卿に列した。建長3年(1251年)讃岐権守を兼任し、ほどなく正三位に昇叙。 建長4年(1252年)権中納言に任ぜられ、建長6年(1254年)従二位に昇叙。建長7年(1255年)左衛門督を兼ねて、正嘉2年(1258年)に正二位に進んだ。弘長元年(1261年)中納言次いで権大納言となる。文永8年(1271年)大納言に転じ、翌文永9年(1272年)淳和・奨学院別当に補任された。弘安6年12月(1284年1月)従一位に至る。 基具は大臣になることのできる家格である清華家の出身で、さらに文永9年(1272年)8月より大納言の首席を占め、いつ大臣に昇任されてもおかしくない状況にあった。しかし、当時大臣には多く摂関家の子弟が任じられていたため、基具は長年大納言の地位に留まっていた。かかる状況にある基具を慰撫するために約300年ぶりに准大臣の待遇が復活。弘安7年(1284年)准大臣に任ぜられた。しかし現職の大臣とは認められず、現職者のみが参加できる儀式から排除されてしまい、基具は「存外之沙汰」と憤慨している〔『勘仲記』弘安7年8月29日条。〕。 正応2年(1289年)晴れて太政大臣に任ぜられる。翌正応3年(1290年)に上表して太政大臣を辞任。永仁4年(1296年)出家して、永仁5年(1297年)5月10日に66歳で薨御した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堀川基具」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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