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堀榮三 : ミニ英和和英辞書
堀榮三[ほり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほり]
 【名詞】 1. moat 2. canal 
: [み]
  1. (num) three 

堀榮三 ( リダイレクト:堀栄三 ) : ウィキペディア日本語版
堀栄三[ほり えいぞう]

堀 栄三(ほり えいぞう、1913年(大正2年)10月16日 - 1995年(平成7年)6月5日)は、日本陸軍軍人陸上自衛官。階級は陸軍中佐陸将補
正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、「マッカーサー参謀」とあだ名された。戦中の山下奉文陸軍大将、そして戦後海外の戦史研究家にもその能力を高く評価されている。
参議院議員国土交通大臣(2011年4月 - 2012年6月)の前田武志は堀の甥である。
== 陸軍軍人として ==
奈良県吉野郡西吉野村(現五條市)出身。伊藤祐一郎の子に生まれ、陸軍航空本部長・第1師団長や留守航空兵団司令官を務めた堀丈夫陸軍中将の養子となる。明倫中学から1927年(昭和2年)4月、東京陸軍幼年学校に入り、1930年(昭和5年)3月から陸軍士官学校に進む。なお、この陸軍士官学校時代に、上海戦の陣地突破のケーススタディーより物量の前には精神主義が役に立たないという教訓を得、後の情報分析の基本的な考えとなった〔堀栄三 『大本営参謀の情報戦記』 文春文庫、1996年(平成8年)、35頁。〕。1934年(昭和9年)6月卒業(士官候補生46期)。同年10月に騎兵少尉に任官。騎兵第26連隊に配属された堀は、1936年(昭和11年)10月に騎兵中尉に進級し、1937年(昭和12年)3月に騎兵第16連隊に移る。同年11月から陸軍騎兵学校丙種学生として学んだ後、1938年(昭和13年)3月から陸軍予科士官学校教官を務め、同7月に騎兵大尉に進級。1940年(昭和15年)12月に陸軍大学校に入り、1942年(昭和17年)11月卒業(陸大56期)。なお、同年(1942年)8月、陸大在学中に少佐進級。同年12月から陸軍戦車学校に勤務。
1943年(昭和18年)4月から陸軍士官学校戦術教官。同年10月1日から大本営陸軍部第2部参謀として、大本営に勤務。ドイツ課とソ連課を経て(それぞれの課では両極端な分析方法を採用しており、それが後の分析手法に役立ったとの記録を残している)、アメリカ課に勤務。そこで、アメリカ軍戦法の研究に取り組み、その上陸作戦行動を科学的に分析して1944年(昭和19年)6月に『敵軍戦法早わかり』を完成させ、米軍への水際での突撃や夜間の銃剣突撃は自滅するので行わないようにという内容を伝達した。(内容自体の伝達は、同年3月16日から始めている。)この内容を最初に伝達した師団に、ペリリューの戦いで有名な中川州男がいた。なお、この『敵軍戦法早わかり』が伝達されるまでは、中国戦線での戦訓に基づいて米軍との戦いを行っており、士気が非常に低く突撃によって逃げ出す相手に対する戦い方をとる事で日本軍の損害が非常に増えていた側面もある。この資料の完成後は、硫黄島の戦い及び沖縄戦に代表されるように米軍の被害は増加することになる。なお、サイパンの戦いには内容の教授に間に合わなかったと記録に残している〔『大本営参謀の情報戦記』 文春文庫、182頁。〕。
なお、『敵軍戦法早わかり』以降、大本営内部で意見の調整が行われ、各師団に軍事作戦(戦略)を説明するときに同時に現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった〔『大本営参謀の情報戦記』 文春文庫、155頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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