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堀江 貴文(ほりえ たかふみ、1972年10月29日 - )は、日本の実業家、著述家。ライブドア元代表取締役社長CEO、SNSオーナー兼従業員〔ツイッター 6:46 PM Feb 21st 〕、株式会社7gogoファウンダー、愛称はたかぽん、ホリエモン。日本ゴルフ改革会議委員。 == 来歴 == === 生い立ち === 祖父は久留米市出身で、八幡製鉄所(北九州市)の従業員だったが、1945年(昭和20年)頃、戦災を避けて祖母の実家のあった福岡県八女市(当時は八女郡岡山村)に疎開した。そのまま終戦に伴って同村内の筑後地方航空機乗員養成所の広大な跡地を払い下げてもらい、家を建て、土地を切り売りしながら暮らしていた。堀江が生まれ育った1970年代~1980年代には、家の周囲は主に茶畑で占められていた。1943年(昭和18年)生まれの父は7人兄弟の末子で、高校卒業後一貫して自動車販売会社に勤めてきたサラリーマンであった〔堀江貴文著書のゼロ―なにもない自分に小さなイチを足していく 38頁〕。父はまったく本を読まず、堀江曰く「テレビがあれば満足、巨人が勝てば大満足、という人」「文化や教養といった言葉とは無縁の家庭」であり、家には書斎はおろか本棚すらなかったが、当時訪問販売が盛んであった百科事典は家にあり、小学生の堀江はそれを最初から最後まで通読していた。 百科事典通読のお蔭か、小学生時代の堀江はずば抜けて成績優秀であったが、あまり真面目ではなく、掃除や日直の仕事をやらなかったり、少しでも気に食わないことがあれば取っ組み合いの喧嘩をしたりしていた。そのため教師からは協調性がないと評価されることが多かったものの、小学3年の時の担任だけは堀江を面白がり、学習塾に通い私立中学に進むよう勧めた。そこで堀江は、小学4年から久留米市の学習塾(全教研)に通い始めた。 1985年(昭和60年)、久留米大学附設中学校・高等学校に入学。中学・高校時代の同級生に孫泰蔵がいる。中学の合格祝いの名目でコンピュータ(日立製作所製のMSXパソコン)を買ってもらったものの、ホビー向けの側面が強かったMSXパソコンでは徐々に満足できなくなり、中学2年の時に親に約20万円の借金をして、エントリーモデルながらも本格派パソコンだったNECのPC-8801mk2SRを購入(新聞配達によって全額返済)し、かなり複雑なプログラムを組めるようになっていった。当時堀江が通っていた全教研の英語スクールでも、授業そっちのけでパソコンに熱中していたが、あるとき塾講師からの依頼を受け、塾のコンピュータの教材システムの移植作業を一人で行ったこともある。このようにコンピュータに熱中した中学時代だったが、中学2年の後半頃、パソコン通信の電子掲示板を立ち上げた際、電子掲示板のユーザーがやたらに攻撃的・批判的だったために、それ以降は徐々にパソコンとの距離をとるようになった。 高校時代には友人の家に泊まり込んで麻雀をしたり、ゲームセンターにたむろしたり、当時流行していたビリヤードで遊んだりと、自堕落な暮らしをしていた。中学・高校時代はほとんど勉強しなかったため成績は常に下位だったが、高校3年の夏に受験勉強に取り掛かり、苦手だった英語を集中的に学習するなど一日十数時間の猛勉強の末、1991年(平成3年)東京大学教養学部文科三類に合格・入学、八女を離れて上京、駒場寮の北寮へ入寮し、1・2年次を駒場寮で過ごした。大学1年の時に赤本(東京大学・文系)に合格体験記を寄稿している。 元々、複数の科学雑誌を毎号読んでいたほどの科学少年で理系希望だったが、受験勉強の期間から考えて理系で入学するのは無理だと考え、まずは文科に入学して、その後進学振り分けによって理転し、生命工学の分野に進むつもりだった。しかし入学後、駒場寮の麻雀部屋に入り浸っていた博士研究員の先輩が、優秀な研究者であるにも関わらず、国からの研究費がつかずに劣悪な環境で研究しているのを見て、「天下の東大でドクターまで進んでも、しょせんこんなものなんだ」「こんなに優秀な人でも認められず、劣悪な環境に閉じ込められるのか」と驚き、少しずつ幻滅していき、理系進学を断念。塾講師・家庭教師などのアルバイトや、麻雀、ヒッチハイク旅行などに時間を費やした。 大学3年次の1993年(平成5年)、同文学部宗教学・宗教史学専修課程に進学。駒場を離れて本郷の2DKのアパートで同級生とルームシェアをする。この時、麻雀からは離れたが、競馬にのめり込むようになった。当時は競馬で稼いで馬主になれたら最高だなと、半ば本気で思っていたという(その後ライブドア時代に競走馬ホリエモンの馬主になった)。その後、塾講師のアルバイトに甘んじている現状に危機感を抱き、大学4年次の1994年(平成6年)、中学時代に培ったプログラム技術を活かすべくプログラマーのアルバイトを始めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堀江貴文」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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