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堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月3日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。 == 来歴 == 応徳3年(1086年)11月26日、立太子と同日に8歳で父白河天皇から譲位され即位した。このような短期間での立太子・即位は、異母弟の輔仁親王に皇統が移ることを避けるための白河天皇の強い意向によるものだったという。 即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白藤原師実が摂政となり実権を握り、摂関政治への回帰が見られた。白河上皇は師実を信頼し、院庁の人事も師実の人選に任せており、一方の師実も白河上皇に摂関の任命権を委ねるなど、この時期には師実と上皇は協調関係にあり、白河上皇に院政を敷く意志は無かった。堀河天皇が成人して関白も藤原師通に代わると、上皇の政治関与に批判的な師通は、自ら政務を執ろうとする堀河天皇に協力的であり、親政に近い状態が現出することとなった(『後二条師通記』・『中右記』)。上皇自身も後見の役目を終えたことに加え、天皇の准母である媞子内親王の薨去を機に出家して政務への意欲を失っていた時期でもあったためこの体制が許容されていた。しかし承徳3年(1099年)に師通が死去すると、若い藤原忠実は堀河天皇を補佐するに足りず、天皇は法皇に政務を相談せざるを得なかった。またかつての師実との協調関係から法皇は摂関家にも強い影響力を持ち続け、結果として白河法皇の院政が成立した。 堀河天皇は「末代の賢王」(『続古事談』)と評される賢帝として知られた。関白師通との提携による朝政にも熱心に取り組み、「天が下治まりて、民安く世のどかなり」(『発心集』)といわれた。しかし白河院の政務への関与が再び強まると、天皇の興味は趣味の世界に移っていった。叔母にあたる中宮・篤子内親王の薫陶を受け、学問・和歌・管弦に才能を発揮して廷臣らに慕われたが〔「弦管歌詠之遊、天性所授、不愧往古」『中右記』〕、生来病弱で、在位のまま宝算29で崩御。臨終の様子は乳母・藤原兼子 (伊予三位)の妹である典侍・藤原長子の『讃岐典侍日記』に詳しい。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堀河天皇」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Horikawa 」があります。 スポンサード リンク
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