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堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、日本の小説家。 それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした〔中村真一郎「月報2 編集雑記」(『堀辰雄全集第二巻』)(筑摩書房、1977年)〕。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した〔『新潮日本文学アルバム17 堀辰雄』(新潮社、1984年)〕。肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残した。 戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。戦争末期からは結核の症状が悪化し、戦後はほとんど作品の発表もできず、闘病生活を送ったが48歳で死去した〔。 == 生涯 == === 幼少時代 === 1904年(明治37年)12月28日、東京府東京市麹町区麹町平河町五丁目2番地(現東京都千代田区平河町二丁目13番)にて出生。実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていた〔。母・西村志気は、東京の町家の娘。「辰雄」という名前は、辰年生まれにちなんで命名された。浜之助には妻・こうがいたが病身で子がなく、辰雄は堀家の嫡男として届けられる。1906年(明治39年)、辰雄2歳の時、母・志気が辰雄を連れて堀家を去り、本所区向島小梅町(現:墨田区向島一丁目)へ移る。1908年(明治41年)、辰雄4歳の時、母・志気は彫金師の上條松吉(寿則と号した)に嫁した〔堀辰雄「花を持てる女」(文學界 1942年8月号に掲載)。『幼年時代』(青磁社、1942年)に所収。〕〔池内輝雄『堀辰雄 <叢書 現代作家の世界3>』(文泉堂出版、1977年〕〔 佐々木基一・谷田昌平『堀辰雄 その生涯と文学』(花曜社、1983年)〕〔谷田昌平『墨東の堀辰雄』(彌生書房、1997年)〕〔。 辰雄の母も養父も、江戸っ子肌のさっぱりした気性であったため、辰雄のことで一度も悶着することもなく、誰の目にも本当の親子と見られ、辰雄自身も養父・松吉を実の父親だと信じ、父の死ぬ日までそれを疑ったことがなかった〔〔。なお、実父の堀浜之助は、1910年(明治43年)4月に死去した。その妻・こうも1914年(大正3年)に死去し、以後、浜之助の恩給は辰雄が成人に達するまで受給された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堀辰雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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