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『堕落論』(だらくろん)は坂口安吾の随筆・評論。坂口の代表的作品である。第二次世界大戦後の混乱する日本社会において、逆説的な表現でそれまでの倫理観を冷徹に解剖し、敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した書。敗戦となり、特攻隊の勇士も闇屋に堕ち、聖女も堕落するのは防げないが、それはただ人間に戻っただけで、戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ、と綴られている。旧来の倫理や道徳の否定といった次元ではなく、偉大でもあり卑小でもある人間の本然の姿を見つめる覚悟を示している作品である〔。 1946年(昭和21年)4月1日、雑誌『新潮』(第43巻第4号)に掲載され、同年12月1日に続編(のち『続堕落論』)が、雑誌『文學季刊』第2号・冬季号に掲載された。単行本は翌年1947年(昭和22年)6月25日に銀座出版社より刊行された。文庫版は角川文庫、新潮文庫などで重版されている。 ==内容・あらまし == 終戦で世相も変わりはて、花と散った若者と同じ彼等が闇屋となり、健気な心情で男を送り、亡夫の位牌に額ずいた女達もやがて新たな男を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。戦時中、軍人や政治家が未亡人の恋愛小説を発禁したのも、彼らが女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出するに及んだまでであった。美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情で、私自身も、数年前に姪が21歳で自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、生きていれば地獄へ堕ち、正視するに堪えない一生を送りそうな気がしていたからであった。 日本の武人の案出した武士道という武骨千万な法則も、そういった人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。仇討の法則も、元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性を心情に持ち、昨日の敵と妥協否肝胆相照すのが日常茶飯事であるから、「生きて捕虜の恥を受けるべからず」という規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能で、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。古の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。 天皇制も、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品であり、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼らは日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。日本の政治家達(貴族や武士)は、天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。我々はその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄について、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。我々も何かにつけて似たことをやっている。 日本人の如く権謀術数を事とする国民には大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚に於て彼らはその必要を感じるよりも、自らの居る現実を疑ることがなかったのだ。秀吉は聚楽に行幸を仰いで自ら盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変り易いから、「節婦は二夫に見まみえず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。 まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希うことは小さな人情で、私の姪の場合のように私自身の中にもある、美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時にはじめて美と呼びうるのかも知れないが、20歳の処女をわざわざ60歳の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。私は20歳の美女を好む。死んでしまえば身も蓋ふたもないというが、果してどういうものであろうか。敗戦して、結局気の毒なのは戦歿した英霊達だ、という考え方も私は素直に肯定することができない。 私は血を見ることが非常に嫌いで、臆病者だが、偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に戦きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにもかかわらず、このときほど人間を愛し懐かしんでいた時はないような思いがする。あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となった。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。 だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堕落論」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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