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堤 幸彦(つつみ ゆきひこ、1955年11月3日 - )は、日本の演出家、映画監督。オフィスクレッシェンドの取締役。三重県四日市市生まれ、愛知県名古屋市千種区出身。活動初期は、堤ユキヒコ名義を使用した。 == 経歴 == 1955年三重県四日市市に生まれ、6歳のときに父親の仕事の都合で愛知県名古屋市に引っ越した〔『加藤家へいらっしゃい! 〜名古屋嬢っ〜』DVD映像特典「堤家へいらっしゃい」より〕。名古屋市立田代小学校、名古屋市立城山中学校、私立愛知高等学校と進学し、高校を卒業する18歳まで名古屋で過ごした〔。高校時代からロックに傾倒し、はっぴいえんどに憧れて上京を希望し、法政大学社会学部社会学科へ進学する。大学在学中は当時の学生運動にも参加したが、3年の頃にそれが終わり、拠りどころを失くした堤は大きな挫折感を味わい、大学を中退する。そのころ、偶然見つけた東放学園専門学校の新聞記事をきっかけに同校放送芸術科に入学し、放送業界に入る。〔この段落の出典。〕 アシスタントディレクター時代は、当時の業界の常で先輩スタッフに怒られ、理不尽な暴力を振るわれることが日常茶飯事で〔、仕事ができず立っているだけだったので「電信柱」というあだ名をつけられる日々だった。 TBS『EXPOスクランブル』(1985年)および日本テレビ『コラーッ!とんねるず』(1985年 - 1989年)のテレビディレクターから出発(コラとんでは、TBSには無断で行っていたため、「ハロルドKITAGAWA」「ローゼンKITAGAWA」「ローゼン堤」などの変名を使用)。数々のCMやプロモーションビデオの演出を手掛けながら、1986年、秋元康と会社「SOLD OUT」を立ち上げる〔。のちにこの会社からは離れ、株式会社オフィスクレッシェンド所属となる。 1988年オムニバス作品『バカヤロー! 私、怒ってます』の第4話「英語がなんだ」で劇場映画デビュー。1989年に、アメリカ合衆国・ニューヨークに渡り、1年半滞在する間にオノ・ヨーコの映画(『Homeless』)を撮っている〔。 堤幸彦の名を一躍世間に知らしめたのは、『金田一少年の事件簿』(堂本剛版)。その後、『ケイゾク』、『池袋ウエストゲートパーク』、『TRICK』、『SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜』シリーズ等のヒット作を通し、“堤色”というべき世界を確立し、若者たちの支持を得た。 一方、近年では『明日の記憶』や『まぼろしの邪馬台国』など、年輩層にむけたシリアスな作品や、『Kesennuma,Voices.東日本大震災復興特別企画〜堤幸彦の記録〜』『MY HOUSE』などの社会派作品も手掛けている。 大作映画を多く手掛けるものの長らく日本の主要映画賞とは無縁であったが、2015年に『天空の蜂』『イニシエーション・ラブ』の異なるタイプのエンタメ作品2作を手がけた手腕が評価され第40回報知映画賞監督賞を受賞した〔。 2010年に愛知工業大学客員教授に就任する一方、自らも母校・法政大学の大学通信教育を利用し、文学部地理学科で学ぶ大学生でもある(2012年現在)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堤幸彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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