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堺市立新湊小学校(さかいしりつ しんみなと しょうがっこう)は、大阪府堺市堺区にある公立小学校。 少子化に伴う児童減少により、2007年4月に従来の堺市立湊小学校と堺市立湊西小学校を統合して誕生した。統合後の校地は旧湊西小学校のものを使用している。 ブラジル・ペルーにルーツを持つ児童のための日本語適応指導教室「アミーゴス学級」を開設している。 == 沿革 == 本項では、前身校の堺市立湊小学校および堺市立湊西小学校についてもまとめて記述する。 新湊小学校(湊小学校・湊西小学校)の通学区域は、明治時代には泉北郡湊村(1915年に町制を施行して湊町)に属していた。湊村の児童は明治時代初期には、隣接する堺区〔現在の行政区としての堺区ではなく、市町村制施行前の行政区域としての堺区。現在の堺市堺区中心部にあたる。〕の学校に通っていた。初等科児童は南旅籠小学校〔1948年廃校。現在は堺市立英彰小学校に合併。〕・宿院小学校〔1901年、現在の堺市立英彰小学校と堺市立少林寺小学校へ分離。〕へ、高等科児童は櫛屋小学校〔高等科を単独設置する小学校で、のちに堺高等小学校と称する。現在の堺市立安井小学校の場所にあった。〕へそれぞれ通学していたが、湊村からは通学に不便だったため、村に小学校を設置してほしいという声が高まった。 1885年に大鳥郡公立湊小学校として、湊村独自に小学校を設置した。この小学校が、後年の湊小学校の前身校にあたる。湊村は1915年に町制を施行して湊町となったのち、1920年に堺市に編入された。 1934年9月21日の室戸台風では校舎が全壊し、校舎の下敷きになった児童14人が死亡し、81人が重軽傷を負った。また職員2人も重傷を負っている。堺市内の小学校での被害としては、死亡者数では三宝小学校(55人死亡)・錦小学校(39人死亡)に次ぐ市内3番目の重大な被害となった。 太平洋戦争の激化に伴い1945年には学童集団疎開の対象となり、堺市八田荘国民学校(現在の堺市立八田荘小学校)に疎開した。1945年7月10日の堺大空襲では校舎を焼失し、校区にも被害を受けた。 学制改革によって1947年に堺市立湊小学校となった。その後1950年前後には児童が急増し、当時在籍児童数が2000人を超えて堺市立小学校(当時25校)で一番のマンモス校となっていた。児童の増加傾向が進んでいたことに加え、折からのベビーブームで数年後にはさらに児童が増加することが見込まれたため、湊小学校の分離校を新設することが決定した。 1950年より分離校の校地買収・校舎建設を始めた。分離校は堺市立湊西小学校と名付けられ、1951年9月に開校した。同年9月1日付で校長が任命され、9月6日付で教務主任・9月15日付で教諭17人が湊西小学校勤務を発令された。1951年9月28日に湊小学校・湊西小学校の分離式を実施し、翌9月29日より4年生以下の児童736人で湊西小学校の授業を開始した。 しかし児童数の減少のため、堺市教育委員会は2002年、湊小学校・湊西小学校の統合方針を出した。両校は2007年に統合して新湊小学校となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堺市立新湊小学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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