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塚本 正之(つかもと まさゆき、天保3年5月1日(1832年5月30日) - 大正7年(1918年)2月28日)は、江戸時代後期から明治時代の近江商人、社会事業家。湖国治山の父とも呼ばれる。塚本家はツカモトコーポレーションの創業一族。 == 生涯 == 塚本正之は、天保3年(1832年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代定右衛門(1789年-1860年)の次男として誕生し、通称粂右衛門と称した。兄塚本定次(1826年-1905年)は勝海舟も大物と称した商人で、正之は兄を助け家業に精励し、県会議員を務めると共に一生を通じて公共事業に尽くした〔「滋賀県百科事典」(滋賀県百科事典刊行会編 大和書房 1984年)〕〔「近江人物伝」 P241「塚本正之」の項(臨川書店 1976年)〕〔「近江の先覚」 P35「湖国治山の父」(滋賀県教育会 1951年)〕。 明治6年(1873年)6月学校世話方に選ばれ故郷川並村における小学校創立に力を注ぎ、明治9年(1876年)以降戸長・副区長・村会議員・連合村会議員、明治15年(1882年)6月第二回滋賀県議会議員選挙において当選し(同19年(1886年再選)、神崎・愛知郡衛生会議員、勧業諮問委員等を歴任した。なお、明治26年(1893年)5月家業を引退したが、公職・社会事業への寄与は続けた。また、明治30年(1897年)9月(滋賀県)農工銀行設立委員(後に取締役就任)、明治32年(1899年)滋賀県農会副会長などを歴任した〔。 その間、故郷近くの観音寺山において140町歩程(約139ha)がはげ山で土砂流出による田畑被害を度々被っていたことから、明治12年(1879年)以降自ら測量の上私費を投じ植林を行った。その後、観音寺山での治山成功から兄定次とも相談し、明治26年(1893年)以降毎年資金を寄付し滋賀県内各所で治山治水事業を支援した。神崎郡山上村(現東近江市山上町)稲荷山での砂防事業、東浅井郡七尾村相撲庭(ななおむら すまいにわ、現長浜市)での治水事業を始め、明治27年(1894年)から同40年(1907年)にかけ行われた琵琶湖流入河川の堰堤植林事業は、滋賀県庁と連帯して行い湖東・湖西・湖南・湖北の全県下、総面積260町5反3畝26歩(約260ha)に及び、塚本家は総工事費5万7056円の3分の1を負担した〔〔「紅屋三翁」(塚本源三郎著 1935年)〕。なお、明治31年(1898年)、滋賀県立商業の八幡への移転が県会で決まると、正之は移転費用に対しても多額の寄付を行った〔〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塚本正之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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