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馬憑き(うまつき)は、死んだ馬の霊が人に取り憑いて苦しめるという日本の怪異。 == 概要 == 仏教説話集『因果物語』、江戸時代の随筆『新著聞集』などにみられる怪異で、明治時代の民俗学者・早川孝太郎の著書『三州横山話』にも記述がある。 多くは、馬を粗末に扱った者が馬の霊に取り憑かれ、馬のように振る舞い、最後には精神に異常をきたして死ぬというものである。妖怪研究家・多田克己は、仏教国としての日本ではかつて、獣を殺したり獣肉を口にすることは五戒に触れ、殺生を行なった者は地獄に堕ちるといわれた俗信が、これらの憑き物の伝承の背景にあるとの説を述べている。 ;『因果物語』 : 江戸時代の三州中村(現・愛知県田原市赤羽根)に太郎介という男がいたが、彼は若い頃、馬同士の争いを止めようとして、誤って馬を殺してしまったことがあった。その40年以上も後、40歳代半ばになった太郎助は突然、馬屋に入って馬のように鳴き、雑水を飲み干し、死んでしまったという。 : また、同じく三州の江村とおいう地に住む受泉という法師は、若い頃に馬工郎(馬を扱う仕事)として働いていたが、寛永16年(1639年)の春から突然、目をむいて嘶いたり、桶から雑水を飲んだりといった、馬のような挙動を始めた。周囲の者は初めは悪ふざけだろうと思っていたが、その挙動は馬そのものであり、到底悪ふざけで行えるものではないということになった。周囲が心配して見守る中、まもなく死んでしまった。周囲は、法師でありながら若い頃の仕事の行いが悪かったため、生きながら畜生道へ墜ちたものと話したという〔。 ; 『新著聞集』 : 阿波国(現・徳島県)の国主・松平阿波守が、あるときに飼い馬をひどく虐待したところ、馬は病気で死亡した。すると間もなく馬屋の者が「殿様は馬を十分に飼い馴らすまで馬に乗らないと言っていたが、殿様は俺を偽り、責め立てて殺してしまった。この怨みはいつか晴らす。思い知れ!」と叫び続け、精神に異常を来たしたまま死んでしまったという。 : また武蔵国八王子(現・東京都八王子市)では、原半左衛門という者が馬に焼印を押すことを非常に好んでいた。彼の息子・灌太郎がある年の元旦、従者と共に神社へ参拝に出かけたところ、鳥居の前で「なんと馬の血が多い場所だ。祠の前まで血だらけで足の踏み場もない。参拝どころではないので帰ろう」と言い出した。従者の目には馬の血などどこにも見えないが、灌太郎はそう言われても「血の海なのでこれ以上先へは進めない」と、鳥居の外で参拝を済ませて帰った。その日から灌太郎は病に侵され、馬の鳴き真似をするようになった。7日後に正気に戻った灌太郎は「父が馬を苦しめ続けた報いで畜生道に堕ちる羽目になった、無念だ」と言った。その後に灌太郎は再び悶え苦しみ始め、遂に死んでしまったという〔。 ; 『三州横山話』 : 遠江国(現・静岡県西部)にハヤセの梅という男がいたが、馬に憑かれて精神に異常を来たして以来、三河国(現・愛知県東部)に住み始めた。50歳ほどで常に口から涎を垂らしており、馬の死の報せを聞くと、きまって自分の腕に食らいつき、その報せを追いかけた。そのために彼の腕は常に赤く腫れ上がっていたという。 ; 『耳嚢』 : 播磨国姫路藩中(現・兵庫県姫路市)に村田弥左衛門という者がおり、16、7歳になる娘がいた。この娘が乱心した者のようにあれこれ口に出し、何かに恨みがあるような発言をしたため、加持祈祷をしたが効果が現れなかった。狐狸の類であろうと考えた弥左衛門は、娘にしきりに尋ねるが、「私が狐狸であろうはずがない」ときっぱり否定された。「娘の祖母が私を情けなく殺した恨みから家を祟るのだ」といい、娘を殺し、血筋を絶やすと口に出した。いかなる恨みかと尋ねると、この家に飼われていた馬だったが、老いたために乗馬の役にも立たず、草を踏むこともできなくなったことを祖母に話され、仕方がないから野に放ち、捨てろと指示され、厩橋の天狗谷という所に捨てられ、ついに餓死してしまったということを語った。役立つ時は愛したのに、役立たなくなった途端に、このような不仁をする、と不満を口にし、そしてこの恨みを報いるのだといった。そこであれこれ利害を説き、追善供養をしたので、娘の病気は治ったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馬憑き」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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