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塩冶 貞清(えんや さだきよ〔安田、1990年、p.240 「佐々木貞清」の項(執筆:勝山清次)より。〕〔『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「佐々木貞清 」の項 より。〕、旧字体:鹽冶 貞淸〔『尊卑分脈』より。〕、生年不詳 - 正中3年3月28日(1326年5月1日)〔〔〔西ヶ谷、1998年、P.301掲載 佐々木氏系図。〕)は、鎌倉時代後期の武将〔。 塩冶頼泰の子〔〔(長男〔とされるが兄弟に塩冶秀時がいたようである〔〔「塩冶氏系圖 」より。〕)。通称は孫二郎〔〔。佐々木貞清(ささき -)とも呼ばれる〔〔。塩屋判官と称したとも伝わる〔。 生誕年は不明だが、鎌倉幕府第9代執権の北条貞時が北条氏得宗家当主であった期間(1284年-1311年)内に元服〔元服はおおよそ10代前半もしくはこの前後で行われることが多かったことから、生誕年も1300年以前であったと推定することができる(但し、早めの元服であれば1300年前半生まれの可能性はある)。〕して、貞時と烏帽子親子関係を結んでその偏諱(「貞」の字)を受けた〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.21)。〕人物とみられる。 父・頼泰より出雲守護を継承〔〔〔〔西ヶ谷、1998年、P.190。〕し、左衛門尉〔・検非違使〔・近江守(近江判官〔)に任ぜられ〔、従五位下に叙任〔。主な活動としては、正中2年(1325年)〔この年の段階でも出雲守護であったことが確認されている(西ヶ谷、1998年、P.193)。〕5月に鰐淵寺内の守護使入部を停止したり〔〔、翌3年(1326年)に杵築大社頭役の勤否を六波羅に注進したりしたことが伝わっている〔。後者と同年の3月28日に死去〔〔〔。子には塩冶高貞・塩冶時綱・塩冶貞泰がおり〔(他に寂阿・宗貞・宗泰・泰綱・高顕がいたとする系図もある〔)、嫡子であった高貞が跡を継いだ〔。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩冶貞清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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