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塩冶 頼泰(えんや よりやす〔安田、1990年、p.244 「佐々木頼泰」の項(執筆:勝山清次)より。〕〔『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「佐々木頼泰 」の項 より。〕、旧字体表記:鹽冶 賴泰、生没年不詳〔〔)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将〔・出雲守護〔〔西ヶ谷、1998年、p.190・193。〕〔西ヶ谷、1998年、p.301 佐々木氏系図 より。〕、鎌倉幕府の御家人。父は佐々木泰清〔〔〔〔『世界大百科事典』「出雲国 」の項 より。〕〔「塩冶氏系圖 」より。〕〔武家家伝_塩冶氏(外部リンク)より。〕でその三男。母は葛西氏(葛西清親)の娘〔。佐々木頼泰ともいう〔〔。通称は三郎〔〔。官位は左衛門尉〔〔、出雲守〔。法名は覚道〔。出雲塩冶氏の祖〔〔〔〔。 生誕年は不明だが、鎌倉幕府第5代執権の北条時頼が北条氏得宗家当主であった期間(1246年-1263年)内に元服〔元服はおおよそ10代前半もしくはこの前後で行われることが多かったことから、生誕年も(幅は広いが)1230年代~1250年代の間であったと推定することができる。〕して、時頼と烏帽子親子関係を結んでその偏諱(「頼」の字)を受けた〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.21)。〕人物とみられている。 近江源氏の嫡流佐々木秀義の五男義清が、承久3年(1221年)6月に起きた承久の乱で、武家方に味方して勝利した功により、出雲・隠岐2国の守護となり〔一説に、「文治元年(1185年)、出雲・隠岐2国の守護となり、月山富田城に入る」とする本もあるが、実際には承久の乱の功により、出雲・隠岐の2国を賜ったため、この年代に関しては疑わしい。〕、以後義清の系統は両国の守護を継承していた〔『世界大百科事典 第2版』「塩冶氏 」の項 より。〕。 義清の孫である頼泰〔〔は、隠岐国守護を継承していった兄・時清の系統とは分かれて、出雲国神門郡塩冶郷に大廻城(おおさこじょう/だいさこじょう)を築いてここを本貫地とし、地名を取って塩冶左衛門尉を称した〔〔。これが塩冶氏の始まりである。その時期は弘安年間(1278年-1287年)だったようであり、父・泰清から出雲守護を継承したのが弘安元年(1278年)〔とされている。同6年(1283年)には鰐淵寺の衆徒に対し、亡き父・泰清の遺志により、鰐淵寺三重塔婆造営のための30貫文と銀塔一基を布施して引き続きの協力を要請している〔〔『鰐淵寺文書』。〕。 同7年(1284年)の段階でも頼泰が出雲守護であり〔、この年の9月には、二月騒動での謀反人・北条時輔の遺児の諸所巡回を用心すべきとの関東御教書を鰐淵寺に施行している〔〔〔弘安七年九月七日「佐々木頼泰施行状」(『鰐淵寺文書』、所収:『鎌倉遺文』15300号)。〕。同11年(1288年)9月には塩冶郷内大津村田地一町を杵築大社神田に寄進している〔。その他の活動としては、領内にある塩冶神社に、守護である頼泰が武勇を尊ぶ趣意から誉田別命を勧請したことが挙げられ、これにより同神社は「塩冶八幡」とも呼ばれた〔鹽冶神社(下記外部リンク)より。〕と伝わっている(→八幡神#鎌倉時代)。 頼泰の子には塩冶秀時(ひでとき)〔〔、塩冶貞清がおり〔〔〔、貞清の系統は以後鎌倉時代を通じて出雲守護職を相伝した〔〔〔。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩冶頼泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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