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塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。 == 略歴 == 旧制長野県松本中学校より海軍兵学校第32期入校。席次は入校時190名中首席、卒業時192名中次席。同期に山本五十六、吉田善吾、嶋田繁太郎、堀悌吉などがいる。海軍兵学校在校中の席次は常に堀と首席を競う。山本、吉田、嶋田より1年早く海軍大将に昇進した。山本は塩沢を『おい、養命酒』と呼称していた。 日本海海戦に「朝日」乗組みとして参戦。海軍大学校甲種課程修了後は日英同盟の関係で第1次世界大戦中のイギリス海軍に観戦武官として派遣され戦艦に乗艦する。大角人事に際しては、堀の予備役編入を阻止するため人事局長に働きかけている〔『日本海軍の興亡』p.172〕。第一遣外艦隊司令官在任中に第一次上海事変が発生。騒乱の拡大を阻止すべく、中国公安局襲撃を企てる日本人居留民を説得した〔『歴代海軍大将全覧』p.258〕。のち第五艦隊司令長官として、アモイ攻略戦、広東攻略戦に従事している。 平沼内閣総辞職に伴い米内光政が海軍大臣を辞任する事になり、後任に海軍兵学校同期の吉田善吾が親補される。吉田より先任順位が上位の塩沢艦政本部長が吉田海軍大臣の部下となる矛盾が生じるために、塩沢は軍事参議官に転補された。1940年(昭和15年)9月5日、吉田が海軍大臣を辞職し横須賀鎮守府司令長官の及川古志郎が海軍大臣に就任した際に、及川の後任として横須賀鎮守府司令長官に親補される。 日米開戦時は軍事参議官。山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した際に塩沢は国葬の司祭長を務めた。同年、病を得て塩沢自身も死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩沢幸一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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