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塩見頼勝[しおみ よりかつ] 塩見 頼勝(しおみ よりかつ、生没年不詳)は、室町時代後期の丹波国の武将。横山城主(現・福知山城)。前名は小笠原頼勝。官位は大膳大夫。家紋は「三階菱」。 == 生涯 ==
丹波国天田郡猪崎城主・小笠原政信(大膳大夫)の嫡男として丹波国に生まれる。 頼勝は、朝暉ヶ丘に空堀と土塁だけの簡素な掻上の城を築いて龍ヶ城(のち横山城と称す。現福知山城)としたのをはじめ、奈賀山城、茶臼山城、牧城などを築いた。さらに横山城を本城として地盤を固め、天文年間には天田郡全域を支配した。 細川高国に属し、1531年4月(享禄4年3月)、摂津国中嶋の戦いで高国方の武将として細川晴元方の三好元長勢と合戦する。さらに、同年7月(旧暦6月)、摂津国天王寺でも元長勢と合戦し(天王寺の戦い)、続いて尼崎にも転ずるが奮戦むなしく敗れ、高国は広徳寺で自害をした(大物崩れ)。 その後、三好長慶が近畿での実力者となり、三好氏家臣・内藤宗勝(松永長頼)が丹波方面に進出し、船井郡八木城主を拠点に勢力を拡大。これに反発した丹波国人衆による、1560年(永禄3年)の鬼ヶ城(所在地 京都府福知山市大江町)の合戦において頼勝も参陣した。丹波での抗争が続く中、1565年(永禄8年)に氷上郡黒井城主の赤井直正が頼勝の治める天田郡に侵攻。内藤宗勝は頼勝を助けるために軍勢を天田郡に進めるが、同年8月27日(旧暦8月2日)、天田郡和久郷の決戦において戦死。赤井側の形勢が一気に有利となり、赤井直正は鬼ヶ城へ攻め入った。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩見頼勝」の詳細全文を読む
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