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塩冶 高貞(えんや たかさだ、旧字体:鹽冶 髙貞、生年不詳 - 興国2年/暦応4年は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。通称が大夫判官だったことから、物語では塩谷〔「や」の漢字表記は冶ではなく谷となっている。〕判官(えんや はんがん)として広く知られた。家紋は「花輪違」〔『見聞諸家紋』による。(原文は「輪違」とあるが、後世に言うところの「花輪違(七宝に花角)」のことである)。尼子氏流塩冶氏は「丸に角立て四目結い」を使用したと思われる。歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』に登場する、塩冶判官は「丸に角立て四目結い」もしくは「丸に違い鷹羽」が使われることが多いがこれは史実ではない。〕。 == 生涯 == 生誕年は不明だが、鎌倉幕府第14代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間(1311年-1333年)内に元服〔元服はおおよそ10代前半もしくはこの前後で行われることが多かったことから、生誕年も1300年代、或いは早くとも1290年代の間であったと推定することができる。〕して、高時と烏帽子親子関係を結んでその偏諱(「高」の字)を受けた〔紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.21)〕人物とみられる。 建武2年(1335年)の中先代の乱後、関東で自立した足利尊氏を討つべく東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣する。箱根竹ノ下の戦いでは道誉と共に新田軍から足利方に寝返り、室町幕府においては出雲国と隠岐国の守護となった。高師直の讒言〔『太平記』によると師直の讒言の原因については、師直が高貞の妻に恋心を抱き、恋文を吉田兼好に書かせて彼女に送ったが拒絶され逆上したためとも言われているが、史実としての真相は不明である。また、高貞が足利直義を支持して師直を支持する在地の武士達と対立関係にあったためとする見方も存在する。〕により謀反の疑いをかけられたため、暦応4年(1341年)3月ひそかに京都を出奔し領国の出雲に向かうが、山名時氏らの追討を受けて、妻子らは播磨国蔭山〔現在の兵庫県姫路市〕で自害した。高貞はなんとか出雲に帰りついたものの、家臣らに妻子の自害した旨を聞き「もはやこれまで」と、出雲国宍道郷の佐々布山で自害〔『師守記』の説では、「高貞は出雲に帰りつかず、妻子ともども播磨国蔭山で自害した」ともいうがこの説は採り難い。〕したという。これにより、高貞の子弟殆どが共に討ち取られるか没落した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩冶高貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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