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塩谷 靖子(しおのや のぶこ、1943年11月 - )は、視覚障害プログラマーでありながら全盲の歌手として活躍する日本のソプラノ歌手、そしてエッセイスト。日本において話題の「千の風になって」とは異なる独自の訳による歌曲「千の風」で、昨今では人気を博する。 == 生い立ち == 東京都に生まれ、1歳4ヶ月の時に東京大空襲に遭い、両親の故郷である鳥取県境港市へと移り住んだ。視力は生まれつき弱かったが最初から全盲ではなく、先天性緑内障のために、徐々に視力が衰えた後8歳の頃には完全に視力を失ってしまった。 妹と弟とがいるが、子供たちの将来を配慮した父親が東京への帰京を志し、彼女が6歳の頃、父親は単身上京して生活基盤を先に準備した。その後、7歳の頃に家族も上京した。 上京後、彼女は1年遅れで東京教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の小学部に入学する。音楽を学ぶことも、ピアノを買ってもらうことも、余程の大金持ちでない限りは叶わないような、戦後の貧しい日本に育った彼女は、視力を失ってからはラジオから流れてくるクラシック音楽を聴いて夢を馳せた。 盲学校の中学部を卒業後、高等部では音楽科に進みたかったものの諦めざるを得なかった。高校1年の頃に、伯父からレコード・プレイヤーを贈られたのがきっかけでシューベルトやシューマンの歌曲に魅了され、自己流で歌い始めていた。しかしながら、高等部を卒業後、盲学校の職業コースである理療科へと進み、多くの視覚障害者にとって一般的な鍼やマッサージの勉強をした。 自活していけるだけの資格を手にした後、両親は彼女に選択の自由を与え、彼女はすぐに就職せずに大学への道を志した。微分積分に「美」や「神秘」を感じていた彼女は、1年間の受験勉強の後、点字受験を認めた東京女子大学文理学部数理学科に入学し、抽象代数学を専攻した。また、大学3年の時に知り合った塩谷治と卒業後に結婚することとなる。夫はその後、高等学校の国語教師に就いた。 大学卒業後、視覚障害者採用枠を設けた日本ユニバック(現:日本ユニシス)に、日本初の全盲プログラマーとして入社。視覚障害プログラマーの先駆者として貢献して話題になる。そこでは、点字変換用のソフトを開発し、コンピュータからのデータを点字で紙に打ち出す日本初の装置を生み出した。しかしながら、プログラミングはチーム制で進める仕事が多いため、まだ不便な当時のハードだけを用いて仕事を続けるには限界があり、同僚に迷惑をかけないよう考慮した彼女はやむなく退社を選ぶ。その後、二児の子育てと両立させながら、盲学校の非常勤講師や大学受験通信講座の添削、盲ろう者の指点字通訳などをして過ごした。 42歳の頃、集まりで歌った彼女の歌を偶然聴いた音大の教授から勧められ、また子育ても一段楽していたこともあり、若い頃からの憧れであった音楽を学び始めた。当初は全くの趣味で始めたはずだったが、48歳の頃からコンクールを受け始め、賞を得てからはソプラノ歌手として日本全国で活発な演奏活動を開始した。 2006年末頃から日本において話題となった「千の風になって」とは異なる独自の訳による歌曲「千の風」は、正式な発売前から爆発的な人気を博する。 全日本演奏家協会、東京室内歌劇場、新星'78、ほか会員。 趣味はバード・リスニングやエッセイであり、各誌への寄稿をはじめ、ラジオなどのメディアでも活躍。視覚障害者用の専用インタフェースを使用して、自分で作成したウェブサイトも運営している。演奏の際には、娘である塩谷多衣(しおのや たえ)のピアノ伴奏によって、親子むつまじく出演することも多い。また、息子である塩谷純一(しおのや じゅんいち)と共に製作した作品も発表している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩谷靖子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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