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塩野 義三郎(しおの ぎさぶろう、1854年4月14日(嘉永7年3月17日〔『シオノギ百年』p20〕) - 1931年(昭和6年)12月29日〔『シオノギ百年』p186〕)は、塩野義製薬の創業者。(初代)義三郎の長男である正太郎は1920年に義三郎を襲名しているが、本項では主に(初代)義三郎について記す。 == 来歴 == 1854年4月14日(嘉永7年3月17日)、義三郎は大阪道修町で薬種商(のちの塩野香料)を営む二代目塩野吉兵衛(正しくは、吉の字の上部は土。兵衛)の三男として生まれた。二代目吉兵衛は長男の豊太郎と次男、三男の義三郎の3人の子をもうけたが次男は早世している。1870年(明治3年)、二代目吉兵衛は豊太郎に吉兵衛を襲名させた。三代目吉兵衛のもとで商いの見習いを続けていた義三郎は、1874年2月2日に分家し、一戸を構えた〔『シオノギ百年』p20-24〕。1878年3月17日、24歳の誕生日を以って道修町三丁目12番地(現在の塩野義製薬本社所在地)に薬種問屋を独立創業した。当初の取扱品目は沈香や麝香、薬用人参など和漢薬が主で、肝油やシンコニーネなどの洋薬も扱った〔『シオノギ百年』p29〕。1880年12月22日に結婚、翌1881年11月15日に長男正太郎が生まれた。1883年4月8日には次男長次郎が生まれている。1886年には、取扱いを和漢薬から洋薬に切り替えた。1892年に北区相生町に小規模な製薬工場を設け、カフェインや塩化スズなどを製造したが、1899年2月に一旦廃業している。1902年、長男の正太郎が大阪高商(現・大阪市立大学)を卒業。兵役を終えたのち1906年に家業に就き営業の仕事を担う〔『シオノギ百年』p66-67〕。次男の長次郎は1907年に東京帝国大学薬学科を卒業し、翌1908年には相生町の工場に分家して薬品の製造を再開した〔『シオノギ百年』p82-83〕。このころ、のちの四代目塩野吉兵衛となる甥の光太郎に、芳香原料の取り扱いの助言もした〔『塩野香料株式会社200年の歩み』p22〕。1909年には、初の自社開発の新薬である制酸薬「アンタチヂン」を発売した。1919年(大正8年)、正太郎が管掌していた薬種問屋「塩野義三郎」と、長次郎の主宰による製薬事業「塩野製薬所」を合併し、「株式会社塩野義商店」を設立、義三郎は社長に就任した。1920年2月2日、義三郎は経営の一線から退き、平取締役となった。これと同時に名を義一と改め、正太郎が義三郎の名を継いだ〔『シオノギ百年』p132〕。1936年5月10日、長次郎が肺炎で逝去。同年12月28日には義一が池田市の隠居先で散歩中に倒れ、翌日に77歳で亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩野義三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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