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塩野 適斎(しおの てきさい、安永4年(1775年) - 弘化4年11月16日(1847年12月23日))は八王子千人同心組頭。組頭・河西知礼の次男として生まれる。別名、河西知哲。寛政3年(1791年)、17歳のとき、組頭・塩野光廸(鶏沢)の養子となり、通称を所左衛門といい、諱は轍、適斎と号す。 == 人物 == 剣術にすぐれ、太平真鏡流開祖・若菜豊重に入門し、免許皆伝。多くの千人同心に剣術を教えた。文化10年(1813年)、八王子千人頭・原胤敦に地誌制作の幕命があると、植田孟縉らとともに武蔵国の多摩郡、高麗郡、秩父郡の地誌編纂に従事、『新編武蔵風土記稿』の一部を完成させる。さらに『新編相模国風土記稿』の編纂にも従事した。 文政7年(1824年)、前年の怪文書のため不行跡との理由から、適斎を含む同僚50人が譴責処分となり、平同心に格下げとなった。 文政10年(1827年)、『桑都日記』正続41巻を完成させ、幕府に献上した(「桑都」(そうと)とは織物の町・八王子のこと)。これは多年の調査と膨大な資料をもとに編まれた、八王子地域と八王子千人同心の天正10年(1582年)から文政7年(1824年)までの編年史である。 その他、『適斎文稿』、『適斎詩集』、『筑井県行』、『日光客中謾筆』などの著作がある。 弘化4年(1847年)11月16日、死去。葬儀には千人頭5名以下、500人を超える参列者があったという。享年73。墓は極楽寺(東京都八王子市大横町7-1)にあり、東京都指定文化財に指定されている。 八王子市追分町に存在した塩野適斎の屋敷の建物は、現在は小金井市の江戸東京たてもの園に移築保存されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「塩野適斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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