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増山 正修(ましやま まさなお)は、江戸時代末期の大名。伊勢長島藩の第7代藩主。長島藩増山家8代。 == 経歴 == 文政2年(1819年)12月7日、出羽庄内藩主・酒井忠器の次男として生まれる。第6代藩主・正寧の嫡子・正直が早世したため、婿養子となる。天保13年(1842年)、正寧の死去により跡を継いだ。1847年9月には日光祭祀奉行を務めている。 幕末期に入ると佐幕派の立場を貫く。元治元年(1864年)からの長州征伐では京都・大坂の警備を担当し、翌年4月には若年寄に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも、最初は幕府側に与して抵抗の姿勢を示していたが、隣藩の伊勢亀山藩をはじめ、伊勢国内の藩のほとんどが新政府に帰順したため、涙ながらに新政府に帰順し、藩軍を奥羽や北越に出兵させることになった。しかし幕府側に協力していた姿勢を新政府側から警戒され、このとき赤報隊の相楽総三によって軍資金という名目で3,000両を強奪されたという。 正修も正寧と同じく、4男5女と多くの子女に恵まれたが、廃嫡された正方と五女・八十子以外は全て早世するという不幸に見舞われた。このため、明治2年(1869年)1月18日に正修が死去した後は、養嗣子の正同が跡を継ぐこととなった。享年51。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「増山正修」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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