|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 増 : [ぞう] (n) increase ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 雪 : [ゆき] 【名詞】 1. snow ・ 斎 : [とき] 【名詞】 1. meals exchanged by parishioners and priests
増山 正賢(ましやま まさかた)は、江戸時代中期から後期の大名。伊勢長島藩第5代藩主。長島藩増山家6代。文人大名として知られ、多数の書画を画いている。 == 生涯 == 1754年10月14日、第4代藩主・増山正贇の長男として江戸に生まれる。安永5年(1776年)、父・正贇の死去により、23歳で伊勢長島2万石の家督を相続する。大坂城御加番などを歴任する。政治面では無能であったといわれているが、文化面に関しては当時において一流の人物だったと言われている。天明5年(1785年)8月には儒官の十時梅厓に命じて藩校・文礼館を創設し、孔子廟も創設している。また、多くの文化人を招聘して文治の発展に尽力した。正賢自身は山水画や花鳥画など書画に優れ、囲碁や煎茶などにもその芸域が及んだ。文芸に秀でた文人大名として尊敬を集めた。著書には『松秀園亭舎記』『煎茶式』などがある。 享和元年(1801年)7月5日、48歳で隠居し、長男の正寧に跡を継がせた。その後は江戸巣鴨の下屋敷に住んで悠々自適の生活を送っていたが、このように文化に溺れていったことが、幕府の奢侈禁止令に違反したとして文化元年(1804年)7月に謹慎処分に処されている。1819年1月29日に江戸築地で死去した。享年66。 墓所は東京都台東区上野寛永寺(勧善院)。現在、中野蓮華寺に墓所が移されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「増山正賢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|