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増田章 : ミニ英和和英辞書
増田章[ますだ あきら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぞう]
 (n) increase
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [しょう, あきら]
 【名詞】 1. (1) chapter 2. section 3. (2) medal 

増田章 : ウィキペディア日本語版
増田章[ますだ あきら]
増田 章(ますだ あきら、男性1962年(昭和37年)5月22日 - )は、日本武道空手家で、極真会館増田道場の代表師範。段位は八段。身長177センチメートル・体重85.5キログラム〔 『月刊パワー空手』 パワー空手出版社、8月号、1986年、20-31頁。〕。
1980年代から1990年代前半に極真会館が主催するオープントーナメント全日本空手道選手権大会オープントーナメント全世界空手道選手権大会で活躍した空手選手である。瞬発力を生かした爆発的な攻撃力と選手生命も長く、一時代を築いた強豪であった。学年が同級になる松井章圭黒澤浩樹と共に三強ともいわれた。「組手の天才児」「城西の爆撃機」とも呼ばれ〔 『月刊パワー空手パワー空手出版社、12月号、1985年、13頁、29頁、38-42頁。〕、師匠の一人である山田雅稔も増田を「天才的なので細かいチェックをするだけ〔」と語るほど、天分に恵まれていた。
その反面、悲運な判定負けを多くしたことで一時期、「無冠の帝王」とも呼ばれていたが、後述の通り全日本選手権で優勝したことで「孤高の帝王〔 『ゴング格闘技12月号増刊 - BATTLE SERIES Vol.1』 日本スポーツ出版社、1993年、45頁、84頁、88頁。〕」という異名に変わり、また、年月が経つごとに殴打技蹴り技とオールラウンドに使いこなすようになったことで外国人選手から「Over-all excellent fighter(全面的に優秀な選手)」と呼ばれていた〔 『極真カラテ年鑑第14号 - 極真カラテ94』 パワー空手出版社、1994年、45頁、54頁、61頁。〕。全世界選手権には日本人では最多記録の4度出場している (この他には増田の弟子だった市村直樹が4度出場している)。
現在、極真会館増田道場にて指導の傍ら、NPO法人である国際武道人育英会にて理事長を務め、国内・海外での空手普及を行っている。
== 来歴 ==

=== 高校卒業まで ===
石川県金沢市出身。小・中学生時代に和道流空手を学ぶ。星稜高校では柔道部に入部するが、後に転校し陸上部に属する。1978年(昭和53年)、高校在学中に浜井識安が管轄する極真会館石川支部へ入門。浜井は入門当時の増田を「気の強さ・天性のバネ・スピード・身体全体から漂う狂気を孕んだ雰囲気など、どれをとっても一級品の風格があった」と観察していた〔北之口太 『一撃の拳 - 松井章圭』 講談社、2005年、103-104頁。156-160頁。〕。先輩には水口敏夫〔第13回オープントーナメント全日本空手道選手権大会初出場し、4回戦で竹山晴友に敗退。しかし、第14回全日本選手権では中村誠を破ったブラジルアデミール・ダ・コスタ松井章圭に勝ち、決勝進出。三瓶啓二に惜敗したものの準優勝した。第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会にも出場し、第16回全日本選手権では竹山と再戦したが、判定負けで3位入賞。これを最後に選手権大会から退く。岡山県支部長に就任して、現在では極真会館 松井派から離れて、極真会館 極眞會の代表である。〕がいた。北信越空手道選手権大会など地方大会に出場しながら、オープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場を目指す。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「増田章」の詳細全文を読む




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