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壬生 綱房(みぶ つなふさ)は、戦国時代の武将・戦国大名。壬生氏第3代当主で、下野の戦国大名・宇都宮氏の宿老である。権謀術数を駆使して芳賀高経などの重臣を失脚させ、宇都宮家中で絶大な権力を有するようになる。さらに晩年には下克上を果たし、宇都宮氏から独立する。壬生綱重の嫡男であり、子に、綱雄、昌膳がいる。周長、資長は弟。 == 生涯 == === 宇都宮成綱・忠綱家臣時代 === 文明11年(1479年)に下野宇都宮氏の家老・壬生綱重の嫡男として誕生した。〔但し、系図によっては、1486年誕生説もある。〕 宇都宮成綱から偏諱を賜っている。 父である壬生綱重が鹿沼城を任されるようになってからは、綱房は壬生城主となった。永正6年には1509年に宗長が鹿沼に訪れた際に家臣の横手繁世と共に催し、句を披露した。この後、横手一伯の娘を側室として迎えたという。永正9年に起きた宇都宮錯乱の時も父に従い成綱方だったと思われる。永正17年(1520年)には、浄宝寺縄吊し合戦で那須氏の居城である山田城を謀略で落とすなどの功績を上げている。 大永3年(1523年)に皆川氏との間で起こった河原田合戦では宇都宮氏の皆川領侵攻に反対しており宇都宮軍の退路を遮断したという。〔「皆川正中録」〕同年、主君・宇都宮忠綱が結城政朝との対立で猿山合戦で敗北し、成綱の三男である芳賀興綱が宇都宮城を乗っ取り、主君・宇都宮忠綱を追って家督を簒奪した際には綱房は忠綱派だったため、忠綱を居城に保護した。しかし、その後、忠綱を見限り、興綱らと裏で繋がり忠綱を暗殺したという。その後は芳賀高経・芳賀高孝ら反忠綱派によって擁立され、宇都宮宗家の家督と継いだ宇都宮興綱に仕えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「壬生綱房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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