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夏侯亶 : ミニ英和和英辞書
夏侯亶[かこう たん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なつ]
  1. (n-adv,n-t) summer 
: [こう]
  1. (n,n-suf) marquis 2. lord 3. daimyo 

夏侯亶 : ウィキペディア日本語版
夏侯亶[かこう たん]
夏侯 亶(かこう たん、生年不詳 - 529年)は、南朝斉からにかけての軍人政治家は世龍。本貫は譙郡譙県。
== 経歴 ==
夏侯詳の長男として生まれた。斉初に奉朝請を初任とした。永元末年、父が西中郎南康王司馬となって荊州に赴任すると、夏侯亶は建康に留まった。崔慧景が反乱を起こすと、夏侯亶は反乱軍を食い止めた功績で、驍騎将軍の位を受けた。蕭衍が起兵すると、父の夏侯詳は長史の蕭穎冑とともに起兵に協力し、ひそかに都にいる夏侯亶に手紙を出して迎えようとした。夏侯亶は宣徳皇后の命令書を持ち出し、和帝の擁立に貢献した。建康城が平定されると、夏侯亶は尚書吏部郎となった。まもなく侍中に転じ、玉璽を蕭衍のもとに届けた。天監元年(502年)、宣城郡太守として出向した。まもなく入朝して散騎常侍となり、右驍騎将軍を兼ねた。6年(507年)、平西始興王長史・南郡太守として出向したが、父が死去したため辞職した。墓の側に廬を建てて喪に服し、遺産を弟たちに分け与えた。8年(509年)、持節・督司州諸軍事・信武将軍・司州刺史として再起し、安陸郡太守を兼ねた。父の豊城県公の封を嗣いだ。12年(513年)、召還されて都官尚書に任じられ、給事中・右衛将軍に転じ、豫州大中正を兼ねた。15年(516年)、信武将軍・安西長史・江夏郡太守として出向した。17年(518年)、入朝して通直散騎常侍・太子右衛率となり、左衛将軍に転じ、前軍将軍を兼ねた。まもなく明威将軍・呉興郡太守として出向した。善政で知られ、官吏や民衆がかれの肖像を描き、碑を建てて顕彰した。普通3年(522年)、入朝して散騎常侍となり、右驍騎将軍を兼ね、太府卿に転じた。仕事上の失敗で免職されたが、しばらくして復職した。5年(524年)、中護軍に転じた。
6年(525年)、梁が北伐の軍を起こすと、豫州刺史の裴邃が先遣の軍を率いて南道から寿陽城を攻撃したが、落とすことができないうちに死去した。そこで夏侯亶が使持節を加えられ、裴邃に代わって派遣され、北魏の河間王元琛や臨淮王元彧らと対峙した。まもなく軍を合肥に返すよう命令が下ったため、兵士や馬を休息させ、堰を修築してから進発した。7年(526年)夏、淮水が堰を越え、寿陽城が水没しそうになったため、蕭衍は北道から元樹を進ませ、夏侯亶には湛僧智・魚弘・張澄らを率いさせて淮水・肥水地域に進入させようとした。北魏軍は肥水をはさんだ地に築城し、夏侯亶の軍の後背に出ようとしたので、夏侯亶は湛僧智とともに北魏軍を襲撃して撃破した。黎漿に進攻し、北道を取った韋放と合流した。ともに進軍して52城を降した。寿陽に豫州が置かれ、合肥に南豫州が置かれ、夏侯亶は使持節・都督豫州縁淮南予霍義定五州諸軍事・雲麾将軍・予南予二州刺史となった。寿春は長らく兵乱のために荒廃し、民衆の多くは離散していたが、夏侯亶が賦税や労役を軽減し、農業を勧奨すると、ほどなく人口は回復した。大通2年(528年)、平北将軍に進んだ。3年(529年)、州鎮で死去した。車騎将軍の位を追贈された。は襄といった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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