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夏 寿康(か じゅこう)は清末民初の政治家。字は受之。号は仲膺、仲英。 == 事績 == 1897年(光緒23年)、丁酉科挙人、その翌年には戊戌科進士となり、翰林院庶吉士を授与された。さらに京師大学堂進士館で法政を学び、翰林院編修の肩書も授与された。1903年(光緒29年)、清朝の学部により日本へ政治事情の視察に派遣され、帰国後は湖北省に戻っている。湖北省では黄州師範学堂で監督・堂長を歴任し、1909年(宣統元年)の湖北省咨議局の設立に伴い副議長に選出された。〔徐主編(2007)、1143頁。〕〔外務省情報部編(1928)、460頁。〕 武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、夏寿康は黎元洪により都督府参議や政事部副部長に任用され、後に都督府顧問に移った。この際の内政整理に功績があったことから、1912年(民国元年)6月、湖北省内務司司長に任ぜられる。同年10月、湖北省民政長署理となっている。1913年(民国2年)9月、北京政府中央に召還され、国務院銓叙局局長に任ぜられた。その翌年には政治会議委員に任ぜられ、1915年(民国3年)5月には粛政庁粛政使となる。12月に袁世凱が皇帝に即位すると、夏は少卿の位を授与された。〔〔 1916年(民国5年)6月に袁世凱が死去し、黎元洪が後任の大総統になると、夏寿康は同年8月に平政院院長に起用された。翌1917年(民国6年)2月、総統府秘書長に任ぜられ、8月には司法官懲戒委員会委員長に移っている。1920年(民国9年)9月、湖北省省長に任ぜられた。その翌年に京畿河工督弁に任ぜられたが、実際には就任せず、〔これを最後に政界から引退した。1923年(民国12年)、北京にて病没。享年53。〔〔外務省情報部編(1928)、460頁は、夏の死去について情報を得られなかったのか、1928年時点でも健在のように記述している。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「夏寿康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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