|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 夏 : [なつ] 1. (n-adv,n-t) summer ・ 目 : [め, もく] 【名詞】 1. (1) item 2. division 3. class 4. (2) piece (in Go) ・ 子 : [こ, ね] (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November) ・ 基 : [き, もとい] 【名詞】 1. basis ・ 基金 : [ききん] 【名詞】 1. fund 2. foundation ・ 金 : [きん] 1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr)
夏目 雅子(なつめ まさこ、1957年12月17日 - 1985年9月11日)は、日本の女優である。本名、西山 雅子(にしやま まさこ)。旧姓、小達(おだて)。其田事務所などに所属していた。 == 来歴・人物 == 1957年12月17日、東京都港区旧高樹町の日赤病院にて、六本木の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれる〔(夏目本人の取材に基づく記事)。〕。父親は貿易商〔FLASH 2013年10月15日号・8ページ より。〕。亀甲屋は実際は荒物、金物、石鹸、亀の子たわしなどを扱う日用品雑貨の店だが〔、芸能界デビュー後は貿易会社社長の娘などと変更された〔。父はその後貸しビル業などで成功した〔。3歳上には兄、10歳下に弟がいた。趣味は毛糸の編物、絵(デッサン)、琴、古い食器収集、俳句(東京俳句倶楽部所属、俳号は海童)、生け花(草月流)。 六本木の亀甲屋、高輪、神奈川県横浜市中区山手と居を移したが、ここはモービル石油の日本支社長の旧宅で敷地は250坪もある豪邸だった。千葉県館山にも別荘を持つなど、後にお嬢さんと呼ばれるに相応しい家庭環境である。 小学3年生のときにテレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志したのが初め。この時に子役になりたいと思ったが母親に猛反対されかなわず〔、後に17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を映画館で見て衝撃をうけ、ソフィア・ローレンに憧れ、本格的に女優を目指すようになった。 東京女学館小学校、中学校、高等学校卒業〔高校時代のボーイフレンドはクリスというハーフの学生で、3年後に彼はアメリカの大学に留学して別れた〕。学生時代のあだ名は「ダテピン」。あけっぴろげでテストで悪い点数をとったときに限って「見て、見て」と答案を見せたがるからとのこと。 1976年、東京女学館短期大学にそのまま進学してフランス語を専攻するが、入学直後に、父の友人のツテでタオルメーカー内野株式会社(現UCHINO)のコマーシャルに出演。これはデビュー前で最初のテレビ挑戦だったが、厳しい学校であったので、結局、短大は中退することになる。 同年、日本テレビ・愛のサスペンス劇場『愛が見えますか』のオーディションで486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名(小達雅子)で女優デビューした。この時の演技は57回連続NGを出され、「お嬢さん芸」と言われたほど拙いものであった〔ただし、このドラマで夏目雅子が演じた役は、「強盗殺人事件を目撃し、犯人に轢き逃げされて失明したヒロインが、自殺を図るが、タクシー運転手がそれを救ってくれ、彼に思いを寄せるようになるが、実はその運転手は犯人の一味だった」という複雑な設定で、ベテランでも難しい盲目の演技を強いられる上に、レイプシーン(内容的には未遂)などもあった。素人女優には厳しすぎる内容である。撮影は難航して前述のようにNG連発、降板も議論されたが、最終的にはプロデューサーの強い意向で強行され、続ける条件として野村孝監督は夏目(当時は小達)にスタッフ宅での合宿を命じ、厳しく演技指導して度々叱ったため、撮影終了後、夏目は兄に「女優はもういいや」とねを上げたほどであった。()〕。周囲から“お嬢さん”と見られることは後々まで彼女のコンプレックスであった。 1977年から8年間、山口銀行の広告に登場。同年、カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子から夏目雅子へと改名する〔「ふたりの雅子」によると、カネボウの担当は本名のままでいくことを望んだが、このキャンペーン撮影がセミヌードを含むものであったために、もともと芸能界入り(とくに水着モデルになること)に反対していた母が小達の名を使うことに強く反対して改名することになったという。当時グラビアアイドルがいない時代であり、このポスターはセンセーショナルで、家族は少なからず迷惑したという〕。ブレイクのきっかけを作ったこのときのCMディレクターが後の直木賞作家で夫の伊集院静であった。なお、このときの撮影ロケ地はチュニジアであった〔後述のガセネタと合わせて、これも中国はタクラマカン砂漠で撮影されたというようなとんでもない間違いがネット上でみられるが、当時、チュニジアロケはワイドショーでも取り上げられたほど有名で甚だしい事実誤認である。CMやポスターでははっきり海が見えるし、地中海岸である。そもそも70年代の共産圏で商業的な企画、しかもセミヌードの撮影が堂々とできるはずもない〕。 同年、TBSの『すぐやる一家青春記』で2回目の連続ドラマ出演。東映映画『トラック野郎・男一匹桃次郎』にはマドンナ(ヒロイン)の小早川雅子役に抜擢され、映画初出演を果たした。これは監督の鈴木則文の判断によるもので、同シリーズは初々しい女優や歌手をマドンナに起用するのが基本だった(カネボウのポスターを見たのがきっかけだった〔鈴木則文 『トラック野郎風雲録』 国書刊行会、2010年。ISBN 978-4-336-05234-6。88頁。〕)。鈴木は「彼女はカチンコの事も知らなかった」と述懐している〔『トラック野郎風雲録』 90頁。〕。 1978年、NHK大河ドラマ『黄金の日日』に出演。日本テレビ系『西遊記』では三蔵法師役を演じて人気を得る。この時、「頭の形が良く、美しくて神々しい」と話題になった。ドラマは好評で、翌年放送される『西遊記II』にも出演。これらのドラマによって夏目雅子の人気が高まったことにより、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていたが、本格的に女優を目指したいと本人が直訴して、P&M事務所〔P&Mは宍戸錠が設立したタレント事務所だが、夏目のデビュー作「愛がみえますか」の主演俳優が宍戸錠だった〕 から、文学座とつながりの深い其田事務所に移籍した。以後、仕事は女優業中心となる。 1979年、父が癌に倒れ、摘出手術。夏目雅子は「気絶してしまうからやめなさい」という医師の指示を聞き入れず、父の手術の一部始終をその目で見た〔。なお父は末期癌で手術のかいなく翌年に47歳で他界した。 1980年、ドラマ『サンキュー先生』(テレビ朝日系列)の1話で、いじめられっ子の姉役に特別出演。プロデューサー久世光彦からこれからの女優として推薦され、ドラマ『虹子の冒険』(テレビ朝日系列)で初主演。同様に夏目雅子の女優としての将来性を見抜いた演出家和田勉によって『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢された。このドラマはNHKの制作だが、上半身裸のヌードシーンがあった〔。これらドラマでの迫真の演技により女優としての評価を高め、「お嬢さん女優」のイメージを覆すことに成功した。さらにこの年は映画『二百三高地』にも出演。 1981年、『野々村病院物語』に出演。NHK大河ドラマ『おんな太閤記』にもお市の方役で出演。この年にバセドウ病の手術を行った。〔バセドウ病のほか腎盂炎は彼女の持病だった。『ふたりの雅子』によると母スエも扁桃腺肥大であったことが書かれている〕 1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。そのため事務所の大反対を受けたが、説得に説得を重ね、本人がヌードになった。迫真の演技が話題になりこの作品でブルーリボン賞獲得。演技派女優としての地位を確立したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。 1983年、NHK大河ドラマ『徳川家康』に淀君役で出演。『小説吉田学校』で吉田茂の三女麻生和子(元内閣総理大臣麻生太郎の母)役で出演。 1984年、不倫していた作家伊集院静と結婚〔妻子のある伊集院とは長い不倫関係だった。伊集院の正式離婚後、一時期疎遠になるが、桃井かおりの登場から始まる三角関係が、夏目に結婚に踏み切らせたのだろうと母スエは回想している。これは当時の週刊誌ではかなり話題になった。結婚前、伊集院との間の子を、夏目は複数回堕胎していた。このことは長く秘密にされてきたが、伊集院が二人の関係をモデルに描いた小説「乳房」で暴露して以後、小達スエの「ふたりの雅子」などにも書かれるようになった〕。神奈川県鎌倉市由比ガ浜に在住。媒酌は行きつけの鎌倉長谷寺近くにある寿司店主夫妻。結婚式もこの寿司店で内輪だけで行われた。後日、自宅で週刊誌用に行われた記者会見では、新婚旅行はどこに行きますかと問われて、「韓国〔伊集院は元在日二世〕 です。」と答えている。 1985年2月14日、舞台『愚かな女』の公演の最中10円玉大の口内炎が出来、さらに激しい頭痛等極度の体調不良を訴える。それでも泣きながら「這ってでも舞台に戻る!」と頑なに出演続行を望む夏目本人を何とか説得して、共演の西岡徳馬の勧めにより翌2月15日慶應義塾大学病院に緊急入院した。急性骨髄性白血病〔『ふたりの雅子』によると幼なじみの「明ちゃん」も闘病生活の末に白血病で亡くなったということである。この記憶があったために白血病である事実は本人には隠されることになった〕 と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。夏目の入院と共に夫の伊集院は、仕事をすべて辞めて彼女が亡くなるまで母親らと共に看病にあたった。当初から、娘の芸能活動にずっと反対だった母スエは、彼女が入院して初めて娘の出演する作品をみてベッドの彼女に話しかけた。その時彼女はとても喜んだという。 1985年9月11日午前10時16分、逝去。約7ヶ月という長い闘病生活を送りながらも順調に回復し、退院間近の報道もあった矢先であったが、その後、抗がん剤の副作用等が原因とみられる肺炎を併発。8月下旬からずっと高熱を発し、9月8日に突然熱が一時的に引いたが、翌日から高熱を発して意識不明の重体になり27歳で死去。 戒名は「芳蓮院妙優日雅大姉」と「雅月院梨園妙薫大姉」。前者は小達家菩提寺から、後者は夫の西山家の菩提寺からのものである。菩提寺は、山口県防府市防府駅近くの大楽寺、多磨霊園の小達家の墓にも分骨されている。なお彼女自身の遺作は『北の螢』であった。〔彼女の母方の伯母も33歳で亡くなっている。父も前述のように47歳で亡くなった。曾祖母は88歳の長寿で、夏目雅子の20歳の誕生日に亡くなった〕 没後10年にあたる1995年、キヤノンのコピー機の宣伝に夏目雅子が起用され、限定百組で写真集をプレゼントするという企画があり、全国から23万人もの応募があった〔。後に彼女を題材にしたテレビドラマも数多く作られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「夏目雅子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Masako Natsume 」があります。 スポンサード リンク
|