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夕陽丘 : ミニ英和和英辞書
夕陽丘[ゆうひがおか]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ゆうべ, ゆう]
 (n) evening
夕陽 : [ゆうひ]
 (n) setting sun
: [よう]
  1. (adj-na,n-adv,n) way 2. manner 3. kind 4. sort 5. appearance 6. like 7. such as 8. so as to 9. in order to 10. so that 1 1. yang 1
: [きゅう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground 

夕陽丘 : ウィキペディア日本語版
夕陽丘[ゆうひがおか]

夕陽丘(ゆうひがおか)は、大阪府大阪市天王寺区西部の汎称地名であり、夕陽丘町を中心とした、上町台地西側の地域をさす。具体的には生玉町生玉寺町夕陽丘町伶人町逢阪(1丁目)下寺町の地域一帯あたりを指し、「夕陽丘風致地区」に指定されており、緑風景が維持されている。広域的には東側の生玉前町上汐(4~6丁目)、六万体町、南側の逢阪2丁目あたりも含まれる。
上町筋よりも東の上町台地東側(上本町北山町四天王寺小宮町辺り)にも「夕陽丘」と名の付く施設は幾らか存在するが、これらの地区は夕陽丘地区には通常は含めない。
かつては夕日岡(ゆうひのおか)とも呼ばれていた。(後述)
== 歴史 ==

嘉禎2年(1236年)に歌人・藤原家隆が、浄土教の教えである「日想観」を修するためにこの地に移り住んで終の地とし、住居として『夕陽庵』(せきようあん)を設けたことが夕陽丘の地名の由来とされる。また、家隆は

::''ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入り日をおがみつるかも''

の歌を詠み残している。
かつては大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地であり、大江神社、新清水寺、四天王寺西門辺りが有名だった。現在の夕陽丘町と六万体町には「天王寺寺町」、生玉町と生玉寺町には東側に「生玉中寺町」、西側に「生玉寺町」といった寺町が形成された。
幕末の国学者・伊達宗広は藤原家隆を敬愛しており、明治初期にこの地に「自在庵」を建てて居とし、この地を「夕日岡」と命名した。しかし明治5年に体調を崩して東京に移り住んだ。明治10年に宗広が死去した際、遺言により家隆塚の近くに埋葬された。のちに実子の陸奥宗光ら一族9名もこの地に埋葬された。(昭和28年に宗広や陸奥家一族は鎌倉・寿福寺境内に改葬)
夕日岡(とくに狭義)の地名はのちに南区天王寺大字天王寺字夕陽丘 → 南区天王寺夕陽丘町 → 現在の地名へと変わっている。
太平洋戦争による空襲で一帯は焼け野原となったが、昭和23年に上町台地上で開催された復興博覧会を期に復興、母子関係の施設が多く設置された。
2009年に大阪市は「上町台地マイルドHOPEゾーン事業」の一環として、家隆塚(伝 藤原家隆墓)を「夕陽を見る場」として再整備し、5月29日に記念講演会が行われた〔大阪市 都市整備局 【報道発表資料】上町台地・夕陽丘の「家隆塚(かりゅうづか)」整備工事完成を記念して講演会を開催します! - 平成21年5月15日 14時発表〕。'ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入り日をおがみつるかも''

の歌を詠み残している。
かつては大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地であり、大江神社、新清水寺、四天王寺西門辺りが有名だった。現在の夕陽丘町と六万体町には「天王寺寺町」、生玉町と生玉寺町には東側に「生玉中寺町」、西側に「生玉寺町」といった寺町が形成された。
幕末の国学者・伊達宗広は藤原家隆を敬愛しており、明治初期にこの地に「自在庵」を建てて居とし、この地を「夕日岡」と命名した。しかし明治5年に体調を崩して東京に移り住んだ。明治10年に宗広が死去した際、遺言により家隆塚の近くに埋葬された。のちに実子の陸奥宗光ら一族9名もこの地に埋葬された。(昭和28年に宗広や陸奥家一族は鎌倉・寿福寺境内に改葬)
夕日岡(とくに狭義)の地名はのちに南区天王寺大字天王寺字夕陽丘 → 南区天王寺夕陽丘町 → 現在の地名へと変わっている。
太平洋戦争による空襲で一帯は焼け野原となったが、昭和23年に上町台地上で開催された復興博覧会を期に復興、母子関係の施設が多く設置された。
2009年に大阪市は「上町台地マイルドHOPEゾーン事業」の一環として、家隆塚(伝 藤原家隆墓)を「夕陽を見る場」として再整備し、5月29日に記念講演会が行われた〔大阪市 都市整備局 【報道発表資料】上町台地・夕陽丘の「家隆塚(かりゅうづか)」整備工事完成を記念して講演会を開催します! - 平成21年5月15日 14時発表〕。'

の歌を詠み残している。
かつては大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地であり、大江神社、新清水寺、四天王寺西門辺りが有名だった。現在の夕陽丘町と六万体町には「天王寺寺町」、生玉町と生玉寺町には東側に「生玉中寺町」、西側に「生玉寺町」といった寺町が形成された。
幕末の国学者・伊達宗広は藤原家隆を敬愛しており、明治初期にこの地に「自在庵」を建てて居とし、この地を「夕日岡」と命名した。しかし明治5年に体調を崩して東京に移り住んだ。明治10年に宗広が死去した際、遺言により家隆塚の近くに埋葬された。のちに実子の陸奥宗光ら一族9名もこの地に埋葬された。(昭和28年に宗広や陸奥家一族は鎌倉・寿福寺境内に改葬)
夕日岡(とくに狭義)の地名はのちに南区天王寺大字天王寺字夕陽丘 → 南区天王寺夕陽丘町 → 現在の地名へと変わっている。
太平洋戦争による空襲で一帯は焼け野原となったが、昭和23年に上町台地上で開催された復興博覧会を期に復興、母子関係の施設が多く設置された。
2009年に大阪市は「上町台地マイルドHOPEゾーン事業」の一環として、家隆塚(伝 藤原家隆墓)を「夕陽を見る場」として再整備し、5月29日に記念講演会が行われた〔大阪市 都市整備局 【報道発表資料】上町台地・夕陽丘の「家隆塚(かりゅうづか)」整備工事完成を記念して講演会を開催します! - 平成21年5月15日 14時発表〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「夕陽丘」の詳細全文を読む




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