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多々良 純(たたら じゅん、1917年8月4日 - 2006年9月30日)は、日本の俳優。本名は田足井 重二(たたらい しげじ)。 新築地劇団研究生、苦楽座、劇団民藝など舞台俳優として活動後、数多くの映画・テレビドラマに出演。頑固ながら根は優しい役などに定評があり〔多々良純 、新撰 芸能人物事典 明治〜平成、コトバンク、2015年7月27日閲覧〕、軽妙な役もこなせる貴重なバイプレーヤーとして活躍した。趣味は園芸・料理・釣り〔キネマ旬報1979、p.339〕。自ら編み出した催眠体操の普及にも努め、『ストレスに勝つ 多々良純の催眠体操』などの著書がある〔〔。 == 来歴・人物 == 1917年(大正6年)8月4日、宮城県牡鹿郡石巻町(現在の石巻市)に、父・重一と母・利の次男として生まれる〔キネマ旬報1979、p.338〕。幼少時代は家業の都合で石巻、仙台、東京と居を移す〔。西巣鴨第二小学校を経て、1935年(昭和10年)に東京府立第九中学校を卒業後、東京YMCA国際ホテル専門学校に入学し、5ヶ月で中退、帝国ホテル食堂部に就職する〔。1年ほど勤めた後、朝日新聞に載った新築地劇団研究生募集の広告を見て、子供の時からの夢だった役者の道を志す。 1936年(昭和11年)10月、新築地劇団に入所、同期に殿山泰司、千秋実、小山源喜らがいた。同年11月の劇団公演『女人哀詞』(山本有三原作)で初舞台を踏んで以来、『どん底』『土』『ウインザーの陽気な女房』などの舞台に出演。1940年(昭和15年)に千葉泰樹監督の『彦六なぐらる』で映画に初出演する〔。同年7月に応召され、近衛歩兵第2連隊に入隊、仏領インドシナから中支にかけて転戦した〔。1943年(昭和18年)に召集解除されると役者生活に戻り、丸山定夫、薄田研二らの苦楽座に参加、慰問公演で全国を回る。1945年(昭和25年)6月、再召集され、陸軍東海第五部隊に入隊する。多々良が応召された後、苦楽座は桜隊と改称して広島市ヘ巡業するが、2ヵ月後の8月6日、桜隊は原子爆弾の投下に遭い、丸山・園井恵子・高山象三ら演劇隊員9名が犠牲となった。運良く助かった多々良はその1ヵ月後、炊事班長の陸軍伍長で終戦を迎えるが、劇団員たちの訃報を聞き愕然とした〔。 1947年(昭和22年)、宇野重吉・滝沢修らが結成した民衆芸術劇場(第一次民藝)に参加。続いて1950年(昭和25年)発足の劇団民藝に加わり、『かもめ』『炎の人』などに出演〔。傍ら映画にも出演するようになり、1952年(昭和27年)に民藝を退団してからは本格的にフリーの映画俳優として活動を始める。アクの強い芸達者な脇役として地位を固め、渋谷実監督の『現代人』、黒澤明監督の『七人の侍』、久松静児監督の『警察日記』といった名作に出演。善人役から悪役まで難なくこなし、名バイプレイヤーとして活躍した。1956年(昭和31年)には『あなた買います』『鶴八鶴次郎』などの演技で第7回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞している。映画・舞台のほか、1960年代からテレビドラマにも盛んに出演し、その存在感をアピールした。 日朝文化交流協会の副理事長を務めていたことがあり、『資料・朝鮮民主主義人民共和国』の冒頭には金丸信・上田哲・宇都宮徳馬・斉藤一雄・佐々木秀典らと共に、推薦の言葉を寄せている〔多々良純「皆に知らせたい欲望」、『資料・朝鮮民主主義人民共和国』、若林煕・唐笠文男(編)、『資料・朝鮮民主主義人民共和国』刊行会、1991年〕。 2006年(平成18年)9月30日午後0時40分、肺機能不全のため東京都内の病院で死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多々良純」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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