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多久 茂族(たく しげつぐ、1833年11月1日(天保4年9月20日)〔『多久市史 人物編』75-77頁。〕〔『平成新修旧華族家系大成』下巻、33頁では「天保四、九、二生」。〕 - 1884年(明治17年)12月20日〔〔『平成新修旧華族家系大成』下巻、33頁では「明一七、一二、二二沒」。〕)は、幕末の佐賀藩士・親類同格多久家第11代当主、明治期の内政官僚。浜松県・伊万里県・佐賀県各権令。幼名・松千代〔。名・美族(よしつぐ)、茂尚、長門〔〔『平成新修旧華族家系大成』下巻、33頁。〕。 ==経歴== 多久家第12代当主・多久茂澄の長男として生まれる〔。天保7年12月24日(1837年1月30日)家督を相続〔。弘化4年5月1日(1847年6月13日)元服し名を茂族と改めた〔〔『佐賀県大百科事典』514頁。〕。嘉永元年(1848年)長崎警備に従事〔〔。武具方・御小物成方頭人、長崎仕組頭人、弘道館頭人を歴任〔。安政2年(1855年)江戸桜田藩邸に入り翌年京都を経て帰国〔。元治元年(1864年)将軍・徳川家茂の上洛に伴い京都に赴任〔。同年11月、長州征討に出陣〔。慶応4年5月(1868年)多久領兵500名を率いて国許を出発し、下野鎮撫のため宇都宮に布陣〔〔。会津城籠城戦ではアームストロング砲での砲撃の指揮を担当した〔〔『幕末維新大人名事典』下巻、44頁。〕。明治元年10月、松平容保父子、会津藩重臣5名の東京への護送を担当した〔。 明治元年12月7日(1869年1月19日)明治政府に出仕し弁官・弁事局出仕となり、その後、少弁となる〔。明治4年11月15日(1871年12月26日)浜松県権令に就任。明治5年5月2日(1872年6月7日)伊万里県権令に転任。大蔵省に県庁を伊万里から佐賀に移転することを願い出て、同年5月29日(7月4日)伊万里県が佐賀県に改称され引き続き権令を務め、同年7月12日(8月15日)に辞任した〔〔〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』100頁。〕。 その後、旧佐賀藩士のため炭鉱開発、士族授産などに尽力した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多久茂族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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