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多久 茂辰(たく しげとき、生没年不詳)は、江戸時代前期の佐賀藩士、第2代多久邑主。龍造寺四家の一つ後多久氏の当主。後藤茂富と梅(大田茂連の娘)の子。室は鶴(天性院。鍋島勝茂の娘)。美作守。子に多久茂矩、岡部興貞室(鍋島元茂養女)、鶴子(南祥院、鍋島直能室)。 == 経歴 == 寛永12年(1635年)、養父・多久安順と同じ佐賀藩請役となる。同年、初代藩主・鍋島勝茂の嫡男・忠直が早世し、遺児・光茂が4歳と幼かったため、勝茂は忠直の弟で支藩の蓮池藩主であった鍋島直澄を後継にしようとした。茂辰はこれに反対し、正統な後継者である光茂に継がせるよう主張し、1657年に光茂が藩主となった。 寛永14年(1637年)、島原の乱が起こると、島原藩は鎮圧できずに佐賀藩、熊本藩に救援を求めた。茂辰は佐賀藩留守家老として諫早茂敬・鍋島茂綱と協議し、「公儀(江戸幕府)の命令無しに出陣はできない」といったん拒否し、その後、幕府の命令を待って出陣した。この時、現小城市にあった熊野山大権現(熊野権現社)において武運長久を祈願させている。また乱の鎮圧後、寛永17年(1640年)頃に、配下の戦死者99名を弔うため、通玄院(現多久市、臨済宗)を建立。99名の実名を刻んだ位牌や島原の乱戦死者供養塔が現存している〔多久市 多久市観光振興計画 〕。 正保3年(1646年)、返済不能な私借銀を作ったとして罷免されたが、家老職であり続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多久茂辰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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