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多功宗朝 : ミニ英和和英辞書
多功宗朝[たこう むねとも]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

多功宗朝 : ウィキペディア日本語版
多功宗朝[たこう むねとも]

多功 宗朝(たこう むねとも)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府御家人宇都宮頼綱の七男〔多功系図による。但し、頼綱の四男とする系図や、五郎を名乗っていたため五男とする説もあり。〕。多功氏を名乗る。宝治2年(1248年)に多功城多功宿河内郡多功村(たこうむら)多功〕を築いて居城とし、多功氏を創始する。西上條旗頭職を主宰。吾妻鏡にも度々登場し、嘉禎4年(1238年2月17日に時の将軍藤原頼経が上洛して六波羅に入った際に、これに従っている。
延徳2年(1240年3月12日、番衛の任務を怠り同族の塩谷泰朝とともに幕府から出仕停止の処分を下されるが、この処分はほどなく解かれたと考えられ、翌年の仁治2年(1241年8月25日の将軍頼経の北斗堂供養、同年11月4日秋田義景の鶴見別荘下向などに従っている。いつ頃より石見守となったかは不明だが、正嘉2年(1258年)の吾妻鏡の記述においては石見守となっているのに対して、弘長元年(1261年)の記述においては石見前司となっているので、この間に石見守を退任したものと考えられている。
霊光山蓮花院西念寺を建立。正応5年(1292年)正月20日、行年73歳にて没する。法名は宗阿弥陀仏。
== 脚注 ==




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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