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多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。 関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。 緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。 == 歴史 == もともと1900年(明治33年)ごろの東京市には5つの公営墓地、青山墓地・谷中墓地・染井墓地・雑司ヶ谷墓地・亀戸墓地があった〔亀戸は後に廃止された。〕。しかし、東京市の市街地化と人口増加に伴い墓地不足となり、東京市外での墓地の造営が必要になった。 東京市公園課長井下清〔1905年(明治38年)東京高等農学校(東京農業大学の前身)卒業。〕は欧米諸国都市における墓地研究の結果、1919年(大正8年)に東京郊外の東・西・北に広い公園墓地を創設する計画を出した。そしてこの計画を基にして、1920年(大正9年)に東京市の西に当たる多磨村が選ばれ、その2年後に多磨墓地の造営が開始された。この場所が選ばれた理由としては、同地はほぼ未開地であったことや、甲州街道や京王電気軌道・北多摩鉄道・中央線など郊外としては交通網がそろっていたからだと言われる。そして、1923年(大正12年)に開園した。なお計画における残りの北・東の墓地は、それぞれ小平霊園、八柱霊園として完成した。 供用開始されたものの、東京市街から離れていたこともあり、使用する者はあまり多くなかった。しかし1934年(昭和9年)に東郷平八郎元帥海軍大将が名誉霊域(7区特種1側1番)に埋葬された〔生前、東郷は青山墓地に埋葬されることを希望していた。〕ことにより多磨墓地の名前が広まり、これ以降利用者が大幅に増え、現在のような人気の霊園の一つになった。 近くに調布飛行場があることなどから、太平洋戦争後期は三式戦闘機の隠蔽や修理をするためにも使われた。今も一部の施設に機銃掃射の弾痕が残っている。 その後利用者が増え、1963年(昭和38年)以降は新規区画がなくなり、現在では改葬整理などで空いた場所のみの使用募集となっている。また、1962年(昭和37年)の芝生墓地や1993年(平成5年)の壁型墓地(13区)やロッカー式納骨堂であるみたま堂・合葬式墓地など土地を有効利用できる都市型の墓地も導入されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多磨霊園」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tama Cemetery 」があります。 スポンサード リンク
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