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多治比 広成(たじひ の ひろなり、生年不詳 - 天平11年4月7日(739年5月22日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。右大臣・多治比嶋の五男。官位は従三位・中納言。 == 経歴 == 和銅元年(708年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵され、下野守に任ぜられる。その後、元明朝から元正朝にかけて越前守や能登・越中・越後の三国を管轄する按察使など地方官を歴任する傍ら、和銅5年(712年)従五位上、霊亀3年(717年)正五位下、養老4年(720年)正五位上と順調に昇進する。 神亀元年(724年)聖武天皇の即位後まもなく従四位下に叙せられる。天平4年(732年)第10次遣唐使の大使に任ぜられ、翌天平5年(733年)4月に難波津から唐に向けて出発〔『続日本紀』天平5年4月3日条〕、天平6年(734年)11月に唐から種子島に無事帰着する〔『続日本紀』天平6年11月20日条〕。帰国翌年の天平7年(735年)遣唐大使の功労により二階昇進して正四位上に叙せられた。 天平9年(737年)8月に参議に任ぜられるが、9月には早くも従三位・中納言に叙任される。天平11年(739年)4月7日薨去。最終官位は中納言従三位兼式部卿。 漢詩人として、『懐風藻』に漢詩作品3首が採録されている。また、広成が遣唐大使として唐に渡る直前、約30年前の第8次遣唐使で渡唐していた山上憶良の邸宅に挨拶に訪れた際に、憶良から広成に贈られた、往来の無事を祈る和歌が『万葉集』に記されている〔『万葉集』巻5-894〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多治比広成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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