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多治 貞岑(たじひ の さだみね、延暦18年(799年) - 貞観16年11月9日(874年12月21日))は、平安時代前期の貴族。名は貞峯とも記す。氏姓は多治比真人のち丹墀真人、多治真人。中納言・多治比広成の曽孫〔『日本三代実録』貞観8年2月21日条において多治比島の玄孫とし、太田亮『姓氏家系大辞典』では多治比広成の後裔とする。なお、『尊卑分脈』では貞岑を広成の子とするが年代が合わない。〕。一説では木工頭・丹墀貞成の子〔中田憲信『皇胤志』、『中村系図』(水戸彰考館蔵)〕。官位は従四位下・右中弁。 == 経歴 == 右京の出身。若い頃から大学寮にて学ぶが、文才があり、奉試に及第して文章生となる〔『日本三代実録』貞観16年11月9日条〕。天長9年(832年)多治比貞成の奏請により、一族とともに多治比から丹墀に改姓する〔。翌天長10年(833年)兵部少丞に任ぜられ、兵部大丞を経て、承和5年(838年)従五位下・加賀介に叙任される。 のち、仁明朝では刑部少輔・民部少輔を歴任する。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に駿河守として地方官に転じるが、国政は清く明らかで官吏や民の評判が良かったという〔。のち大学頭・民部少輔を歴任する。 天安2年(858年)従五位上・左少弁に叙任されると、清和朝の前半は弁官を務め、貞観5年(863年)右中弁、貞観8年(866年)正五位下、貞観10年(868年)従四位下と累進した。同年伊勢守に転じるが遙任であったという〔。この間の貞観8年 (866年)姓の名が一族の祖先である多治比古王に由来するにもかかわらず、以前丹墀姓に改姓したことから、元の多治比に戻した上で、煩雑さを避けるために「比」の時を省略して多治姓への改姓を上表し許されている〔『日本三代実録』貞観8年2月21日条〕。 晩年は閑居し、酒浸りで酩酊の日々を送り、家事を顧みることなく、常に友人を招いては酒を酌み交わしていたという〔。貞観16年(874年)11月9日卒去。享年76。最終官位は散位従四位下。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多治貞岑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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