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多田頼貞 : ミニ英和和英辞書
多田頼貞[ただ よりさだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

多田頼貞 : ウィキペディア日本語版
多田頼貞[ただ よりさだ]
多田 頼貞(ただ よりさだ、生年不詳 - 興国4年/康永2年8月12日1343年9月1日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将摂津源氏の流れを汲む多田氏の一族とされるが明確な系譜は不明〔『尊卑分脈』には能瀬高頼(頼光より6代の後胤)の曾孫に頼貞という人物が見える。〕。皇太后宮権大進倉垣資氏の子。子に頼仲がある。文献で見る限り義理人情に厚く、人使いの上手い人物であることが伺える。
== 生涯 ==
源頼光9代の嫡孫であり、後醍醐天皇に仕える。元弘元年(1331年)の後醍醐天皇笠置山挙兵の折には二階堂貞藤と戦い、これを退ける活躍を見せるも帝(みかど)の本隊が奇襲により総崩れとなると、やむなく軍勢を撤退した。鎌倉幕府滅亡後の建武の新政の折、勤士の功により摂津国能勢郷目代となるが、足利尊氏が帝に反旗を翻すと各地を転戦。延元3年/暦応元年(1338年)には山城八幡(京都府八幡市)、興国元年/暦応3年(1340年)には後村上天皇の命により脇屋義助を補佐し、共に伊予国へ出兵して細川氏に戦いを挑んだ。緒戦は優勢に進めたものの兵力差が大きすぎるため敗北し、備前国に逃れた。
備前国では浜野(岡山市南区浜野)や網浜(岡山市中区網浜)付近を拠点とし、近隣の豪族を味方に付けて勢力を盛り返しつつあったところ、興国4年/康永2年(1343年)に赤松氏の軍勢が来襲し備前国網浜で1度は撃退した(網浜の戦い)が、2度目の来襲時に裏切者がでて敗退し進退窮まり、摂津国にいる嫡男頼仲に「多田家は累世未だ武家に仕えたる先例が無い、もし将軍に仕えるなら氏を能勢に改めて仕えよ」と遺言し8月12日に自害した。
後にそのことを聞いた尊氏は頼貞の勤王心に感涙し、頼仲に能勢の所領を安堵するとともに備前17郷を与えたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「多田頼貞」の詳細全文を読む




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