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多禰寺(たねじ)は京都府舞鶴市にある真言宗東寺派の寺院。山号は医王山、本尊は薬師如来(薬師瑠璃光如来)。大浦半島の多禰山(標高556m)の中腹、海抜300mに位置する。 == 歴史 == 草創の正確な事情は不明である〔『日本歴史地名大系 京都府の地名』(平凡社、1981)、p.677〕。享保2年(1717年)の『多禰寺縁起』によれば、用明天皇2年(587年)、聖徳太子の弟、麻呂子親王(まろこしんのう)の開基と伝えられる。 縁起によれば、父・用明天皇の命を受けた麻呂子親王は、丹後の庶民を苦しめた鬼賊(与謝郡三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土熊)を「七仏薬師の法」の力で平らげ、その加護に報いるため、丹後の国に七箇所の寺を建て、七仏薬師像を安置したという。その中で、親王の護持仏であった第七薬師瑠璃光如来を本尊としたのが当寺で、医王山多禰寺と名付けられたという。 平安時代に入ると七堂伽藍は威風を轟かし、近郷の菩提寺として栄えたが、鎌倉時代・室町時代の打ち続く戦乱に崩壊し、昔の壮観は影を潜めた。 現在は真言宗東寺派に属し、西国薬師四十九霊場30番札所として、風光明媚な自然の山懐にたたずんでいる。 また、平安時代・鎌倉時代・室町時代などの中央作の貴重な文化財を、当初の像容で遺存されている。 室町時代以降、由緒ある寺として丹後の有力者の庇護を受け、多くの安堵状・寄進状が残されている。 * 丹後守護一色氏の被官・桜井豊前守の寺領安堵状-天正年間以前 * 細川藤孝(幽斎)・細川忠興連署による寺領安堵状-天正年間 * 京極高治(高国の弟)寄進状-慶長年間 * 牧野氏寄進状-延宝8年以降 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多禰寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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