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多賀竜 昇司(たがりゅう しょうじ、1958年(昭和33年)2月15日- )は、茨城県日立市出身(本籍地は同県北茨城市)で、鏡山部屋に所属した大相撲力士。最高位は西関脇(1983年(昭和58年)11月場所)。現役時代の体格は178cm、139kg。本名は黒谷 昇(くろたに のぼる)。得意手は右四つ、寄り、上手出し投げ。 現在は、年寄・鏡山である。 == 来歴・人物 == 日立市立成沢小学校時代はあまりにも元気がありすぎて、5年生の時にサッカーのゴールポストで逆上がりしてポストごと倒れ、顔に17針も縫う傷を負ったりもした。 日立市立多賀中学校では野球部に所属し、捕手でキャプテンを務めた。野球の腕を買われて東洋大学附属牛久高等学校への入学が一旦決定したが、経済的な事情で断念。中学卒業後は職業訓練所に通い、溶接の技術を学んだ。 訓練所を卒業する直前に日立グループの子会社への就職も決まったが、近所の建設業者が鏡山親方(元横綱・柏戸)の現役時代からの贔屓だった縁で鏡山部屋を紹介され、家が貧しいことを理由に角界入りを承諾。間もなく同部屋へ入門し、1974年3月場所に於いて、16歳で初土俵を踏んだ。 当初の四股名は、本名でもある「黒谷」。 なお、改名後の「多賀竜」という四股名は、出身の日立市立多賀中学校に因んだものである。取的時代は、十両・魄龍の付け人を務めた。 1981年1月場所で十両昇進、1982年5月場所で入幕を果たした。 1983年11月場所では、自己最高位となる西関脇に昇進したものの、5勝10敗と大きく負け越している。 1984年5月に母が交通事故で亡くなってからは、せめてもの供養にとそれまで以上に懸命に土俵を務め、蔵前国技館で行われた最後の本場所となった同年9月場所では13勝2敗と大勝ちして見事な平幕優勝を遂げた。この場所では、敢闘賞と技能賞を同時に受賞している。 2場所後、両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所では、2日目に横綱・北の湖を押し出しで破って生涯唯一となる金星を挙げた。北の湖は翌3日目の取組前に引退を表明し、彼の現役最後の対戦相手としても名を残した。 その後は持病の痛風の悪化などにより目立った活躍はできなかったが、1988年7月場所では十両の地位でも優勝し、元小結・若浪に続く「天皇賜杯拝戴者の十両優勝」となった。 現役晩年は十両と幕内との往復が続き、1991年5月場所中に33歳で引退、年寄・勝ノ浦を襲名した。 なお、蔵前国技館で幕内最高優勝を経験した力士としては、現役最後の力士ともなった(千代の富士と同じ場所での引退ではあったが、多賀竜の引退表明は、千代の富士より数日後だったため)。 引退後はしばらく、鏡山部屋付きの親方として、後進の育成に当たっていた。 しかし1996年12月、師匠(元横綱・柏戸)が亡くなったため年寄・鏡山を襲名することとなり、鏡山部屋の新たな師匠となった。 なお、長男も鏡山部屋に入門し、「竜勢(りゅうせい)」の四股名で相撲を取っている。 2006年11月場所7日目、土俵下で勝負審判を務めていた際、豊ノ島と安壮富士との一番で押し出しで敗れた安壮富士が土俵下に転落。その124kgもの体重で鏡山は右すねを踏まれ、あまりの痛みに悶絶し翌日から休場した。本人はこのアクシデントについて、「現役時代にも経験したことがない痛み」と語っていた。 2010年2月に日本相撲協会理事選挙に立候補し、当選した。理事は4期目で、現在は総合企画部長をはじめ、指導普及部長、生活指導部長などといった協会の要職に就いている。(2016年3月発表の職務分掌による。) 2期目の当選を果たした2012年1月場所後の改選から約2年間は審判部長を務めていた。現行の制度で、審判部長を関脇経験者が単独で務めることは史上初のケースだった。理事を勇退するまで長年にわたって審判部長を務めていた前師匠(元・柏戸)に続き、弟子である元・多賀竜も審判部長という要職を担ったことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「多賀竜昇司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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