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夜行列車(やこうれっしゃ)とは、夜間から翌日の朝以降にまたがって運転される旅客列車のことである。夜汽車と呼ばれることもある。また、夜行列車のうち寝台車を主体とするものは寝台列車と呼ばれる。 多くの夜行列車は、深夜帯には主要駅をのぞいて旅客扱いを行わないが、深夜発早朝着で運行距離が短い列車では深夜であっても多数の駅で旅客扱いを行うものがある〔「これでいいのか 夜行列車」p.143、200〕。夜行列車の最大のメリットは、深夜という非有効時間帯を利用して目的地に移動できることにある。そのため、他の競合交通機関の(昼行)最終便より遅く出発し、始発便より早く目的地に到着する設定の場合、最もその効果を発揮する。 == 日本の夜行列車 == === 歴史 === 日本では、全国の鉄道網が一通り完成した明治時代中期以降に夜行列車が運行されるようになった〔「これでいいのか 夜行列車」p.20〕。当時の長距離列車は昼夜を問わず走らないと目的地に到着しないものであり、必然的に夜行列車となった。当初は座席車のみによる運転であったが、1900年に山陽鉄道(現在の山陽本線)が日本で初めて寝台車の提供を行っている〔「日本の国鉄」P41〕。 大私鉄によって形成されていた鉄道網は1907年にほとんど国有化され〔「日本の鉄道史セミナー」P69〕、国鉄によりさまざまな夜行列車が運行されるようになった。国鉄となって以降は、軌道や車両の改善によって速度の向上が図られた。1912年から運行された東京-下関間の特別急行列車(列車番号は下りが1列車、上りが2列車)は新橋駅を8時30分に出発し、大阪駅には20時33分、山陽本線内は夜行で走って終点の下関駅には翌朝の9時38分に到着し、所要時間は25時間8分であった。1・2列車は日本を代表する列車として設定されており、編成は一等展望車1両、一等寝台車1両、二等座席車2両、二等寝台車1両、食堂車と荷物車の7両編成であった。この列車は1930年に「富士」と命名され、さらにスピードアップし東京駅を13時ちょうどに発車し下関駅到着が翌朝の8時50分、所要時間は19時間50分で、やはり山陽本線区間は夜行であった〔「国鉄・JR名列車ハンドブック」P19-20〕。 第二次世界大戦前、国鉄の全盛期であった1937年には、東京-下関間の「富士」と、三等座席車主体の「櫻」の2本の特急〔なお、同時期の特急はこの2本と東京 - 大阪間の「燕」と「鷗」のみでいずれも昼行であった。他に、当時は日本の植民地であった朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)釜山 - 京城(現:ソウル)間運行の「あかつき」と、日本の資本・影響下にあった南満州鉄道(満鉄)の「あじあ」(大連 - 哈爾浜間)が「特別急行列車」という扱いであった。特別急行列車も参照されたい。〕のほかに4本の急行が設定されており、うち2往復が東海道本線内をもう2往復が山陽本線内を夜行運転した。また、東京と関西の間はには4本の急行が設定されており、そのうち東京-神戸間の夜行急行「17,18列車」は一・二等専用で別名「名士列車」と呼ばれていた〔「国鉄の戦後が分かる本」上巻 P36〕。これらの戦前の優等列車は太平洋戦争が激化した1944年に全廃され、同時に寝台車も運用されなくなった。 終戦後の1945年11月20日に、東京と大阪の間に夜行急行が復活し1948年には寝台車の供用が再開した〔『寝台急行「銀河」物語』P17〕。その後日本の復興とともに夜行列車は順次増強されていった。昭和30年代に国鉄旅客局が行った「旅行に昼行と夜行のどちらを選ぶか」という調査では、乗車時間が7時間半から9時間であれば昼行と夜行の利用が拮抗しているが、9時間以上であれば夜行が好まれると言う結果が得られた。当時の東海道線に当てはめれば東京-大阪間は特急列車を利用しない限り夜行列車のほうが好まれる状況であった〔『寝台急行「銀河」物語』P31〕。また1957年の国鉄第一次5カ年計画において、「特急列車のうち、昼行は電車またはディーゼルカーを充当し、夜行列車には寝台客車とする」ことが決定した。1956年に急行と同じ形式の座席車と寝台車を寄せ集めて誕生した夜行特急「あさかぜ」の車両は、1958年からこの方針に従って製作された20系客車に変更された〔「戦後日本の鉄道車両」P94〕。 当時は単線非電化の路線が多く、列車の速度も低かった。例えば1956年11月19日のダイヤでは、鹿児島行きの急行「さつま」が東京駅を21時45分に出発し鹿児島駅に到着するのは翌々日の朝5時46分、運転時間は約32時間であった〔「国鉄・JR名列車ハンドブック」P71〕。 これら九州行きの列車も含めて東海道本線には夜行列車が増加し、そのピークは東海道新幹線が開通する直前の1963年から1964年9月であった。1964年9月の東京駅を発車する東海道線の夜行列車の本数は、当時の時刻表によれば以下のとおりである〔『寝台急行「銀河」物語』P81-83〕。 * 九州行の20系客車を使用した特急列車 4往復 * 「寝台列車」と表示された客車急行 : 大阪・神戸行7往復、広島行1往復 * 夜行の電車急行 : 大阪・姫路行3往復、大垣行1往復 * 座席車を主体とする客車急行 : 九州・山陽・山陰・北陸等6往復 * 普通列車 : 大阪行1往復 このとき、東京駅では19時50分から22時10分まで10分毎に夜行列車が発車した。このほかに、東海道線を昼間走り山陽本線を夜行で行く九州行の客車急行が4往復あった〔「国鉄の戦後が分かる本」上巻 P160-161〕。 大阪地区や兵庫県を目的地とした夜行列車は東海道新幹線の営業開始とともに急激に減少し、昼行の直通列車を終了〔正確には九州直通の急行列車であった「霧島」・「高千穂」が東海道本線内は昼行運転、山陽本線では夜行運転となった。〕した1968年10月のダイヤ改正「ヨンサントオ」では寝台の急行2往復と普通1往復まで減少した〔『寝台急行「銀河」物語』P45〕。1972年3月、山陽新幹線が岡山まで開業したが、岡山以西の山陽本線を走る夜行列車は特急列車が定期列車19往復と季節列車1往復、急行列車が定期列車11往復と季節列車6往復という大勢力であった〔「国鉄の戦後が分かる本」下巻 P44〕。1975年の新幹線博多開業時には岡山以西で夜行特急列車が定期列車14往復と季節列車1往復、急行列車が定期列車のみ4往復に減少している〔「国鉄の戦後が分かる本」下巻 P89〕。 1960年代後半(昭和40年代)以降電化や線路・車両改良などによる高速化が図られ、長距離列車の運転時間は長くとも28時間程度に抑えられ、車中1泊の行程で運行する列車のみになった。 1970年代後半(昭和50年代)以降、新幹線や国内航空路線、高速道路網の整備が進み、夜行列車の利用が低迷した。夜行列車のうち寝台列車は寝台料金が必要な料金設定や利便性の面から集客に伸び悩み、列車の廃止や臨時列車化が相次いだ〔Business Media 誠:杉山淳一の時事日想:夜行列車はなぜ誕生し、衰退したのか (2013年11月8日)〕。 1979年に当時の運輸大臣であった森山欽司が「国鉄の財政改善のため、非効率な夜行列車は廃止すべき」と表明し、議論を呼んだことがあった〔参考:参議院運輸委員会会議録(1979年6月5日)〕。 1980年代前半までは、主要幹線では夜行普通列車も多く運転されており、寝台車が連結された列車もあった。これらの列車は並行する優等列車を補完するほか、重要な使命として新聞(特に朝刊)輸送を行った。通信手段が未発達だった当時、都心で印刷された新聞は荷物車により輸送され、未明の各駅に降ろされ直ちに新聞販売店を経て、各家庭に配達された〔『鉄道ジャーナル』(編集・発行 鉄道ジャーナル社)、1980年7月号(通巻161号)、24 - 28頁〕。また郵便物についても郵便車による輸送が行われた。現在この輸送はトラック・航空貨物に取って代わられた。夜行普通列車は、1999年に紀勢本線夜行普通列車「2921M」が新大阪 - 新宮間から紀伊田辺まで短縮されて以降、定期運行されていない。 中学校・高校の修学旅行においても夜行列車や寝台列車が利用されるケースが多々あった〔事例として、東京 - 明石駅間を往復する「きぼう」が挙げられるなどが挙げられる。修学旅行列車も参照。〕が、新幹線の延伸・高速化、昼行特急列車の利用に伴う昼間移動への移行、1990年代以降に公立学校においても航空機の利用が解禁されたことによる空路利用への転移、海外への修学旅行の増加などの理由により、同年代以降は、修学旅行に夜行列車・寝台列車が利用されることはよほどの行程上の事情がない限りなくなっている。 21世紀初頭には、関東 - 北海道を結ぶ「北斗星」・「カシオペア」や、近畿 - 北海道を結ぶ「トワイライトエクスプレス」のように、個室寝台や食堂車でのディナー等のサービス提供を行う列車や、関東 - 山陰・四国を結ぶ「サンライズ出雲・瀬戸」など、個室寝台を基本として快適性を高めた列車など、乗車自体を鉄道旅行の目的とする列車が人気を博した。しかし、「サンライズ瀬戸・出雲」を除く列車は車両の老朽化、新幹線開通後の青函トンネル利用時の専用機関車を新造しないことなどを理由に臨時化ないしは廃止されることが報道された〔ブルートレイン:廃止へ…JR3社、北海道新幹線開業で - 毎日新聞、2013年11月7日〕。「トワイライトエクスプレス」は2015年3月12日発をもって廃止、「北斗星」も2015年3月13日で定期運行を終了し、臨時列車としての運行も青函トンネルの新幹線対応工事に伴い2015年8月22日で終了して廃止となった。 JR九州では2013年10月15日から、九州を一周する豪華寝台列車「ななつ星in九州」〔豪華寝台列車:「ななつ星in九州」車両製作場を開設 〕が運行されている。「ななつ星in九州」の旅行代金は1泊2日の最低料金で15万円(車中泊 2名1室 スイート)、車中で1泊、旅館に1泊する2泊3日の最高料金は95万円(1名1室 DXスイートA+旅館宿泊代金)と設定されている〔クルーズトレインななつ星in九州 〕。ただし、「ななつ星in九州」はどの設定コースも発駅と着駅が共に博多駅であり、移動手段としての要素はまったくない。純粋に九州を周遊する観光旅行を豪華寝台列車を楽しむ旅行商品(パッケージツアー)という形であり、費用も「運賃+料金」ではなく「旅行代金」である。JR東日本やJR西日本も同コンセプトの列車・車両(「TRAIN SUITE 四季島」・「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」)の運行を予定していることが発表されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「夜行列車」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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