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木挽、または木挽き(こびき)は、木材を「大鋸」(おが)を使用して挽き切ること、およびそれを職業とする者である〔''木挽き''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年9月4日閲覧。〕〔''木挽き''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年9月4日閲覧。〕。大鋸挽・大鋸挽き(おがひき)とも呼ぶ〔''大鋸挽き''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年9月4日閲覧。〕〔''大鋸挽き''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年9月4日閲覧。〕。15世紀末の資料には、「大鋸」を「おおのこ」と読み「大のこひき」(おおのこひき、大鋸引)と表記する場合もあった〔小山田ほか、p.142.〕。現在の製材、および製材作業者である。 == 略歴・概要 == 奈良時代(8世紀)、国と寺社が建築物の造営・修理のための木材を確保することを目的に「杣」として山林を指定、これを切り出す杣工とともに、大木を製材する「木挽」(大鋸挽)が出現した〔機械挽製材発達の推移 木挽の起源 、和歌山木材協同組合、2012年9月4日閲覧。〕〔、2012年9月4日閲覧。〕。 「木挽」の歴史において「大鋸」が登場するのは、14世紀 - 15世紀の室町時代に中国から導入されたときのことであり、これによって生産能率が飛躍的に上昇した〔、2012年9月4日閲覧。〕〔、2012年9月4日閲覧。〕。長さが約2メートルあり、2人がかりで左右あるいは上下から縦挽きに挽いて、木材を切る〔。「大鋸」以前ののこぎりは、木の葉形をした横挽き式のものであった〔。 15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「石切」とともに「大のこひき」〔、あるいは「大がひき」として紹介され、2人がかりで挽く姿が描かれている〔〔大鋸引 、Yahoo!辞書、2012年9月4日閲覧。〕〔"打割と挽割"二つの製材道具 、竹中大工道具館、2012年9月4日閲覧。〕。この歌合に載せられた歌は、 * 大がひき 杣板は世に出でながら哀れ身の おがひきこもる山住ぞうき というもので、杣板は産地を出て広い世界に流通していくが、それを切り出す「大鋸挽」自身は山に引きこもっていないければならないことが憂鬱である、と詠まれた〔。同職人歌合に「職人」として紹介された職能は、その後の時代にあっても賎視されたものが多々あったが、手工業者層が全国的な広がりを見せた16世紀以降の日本にあって、「大鋸挽」「木挽」は手工業者を意味する新しい意味での「職人」〔、2012年9月4日閲覧。〕に位置づけられた。 江戸時代初期、17世紀初頭の江戸では、江戸城造営に際して、現在の東京都中央区銀座1丁目から同8丁目までの三十間堀川と築地川との間の地区に「木挽」たちを居住させた〔江戸の芝居小屋と木挽町 、歌舞伎座、2012年9月4日閲覧。〕〔、2012年9月4日閲覧。〕。同地域が「木挽町」と呼ばれるのはこのことに由来し、1951年(昭和26年)に「銀座東」と改称するまで町名として残った〔〔。このころには「大鋸」にイノヴェーションが起き、「前挽き大鋸」が開発され、1人で挽くことができるようになった〔。 江戸時代後期、19世紀初頭、鍬形蕙斎が『近世職人尽絵巻』に「木挽」たちの仕事姿を描き〔近世職人尽絵巻 、東京国立博物館、2012年9月4日閲覧。〕、同作を参考に、1831年(天保2年)ころ、葛飾北斎が『富嶽三十六景』の「遠江山中」として、遠江国(現在の静岡県大井川以西地域)の山中における「木挽」たちの仕事姿を描いている〔冨嶽三十六景 遠江山中 、神奈川県立歴史博物館、2012年9月4日閲覧。〕。この「木挽」たちが使用しているものが、1人で挽くことができる「前挽き大鋸」である。 明治時代以降には、機械での製材が導入され始めるが、手作業での製材作業および作業者は、引き続き「木挽」と呼ばれた〔古内、p.201.〕。 かつて「木挽町」という町名であり「木挽」たちが居住した東京都中央区銀座の旧木挽町地域では、足柄木材(銀座2丁目)、大西材木店(同3丁目)の2社が、2012年(平成24年)9月現在も材木商を営んでいる〔木材商 東京都 中央区 、BIGLOBE、2012年9月4日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木挽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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