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大ノ里 萬助(おおのさと まんすけ、1892年4月1日 - 1938年1月22日)は、青森県南津軽郡藤崎町出身の元大相撲力士。本名は天内 萬助(あまうち(てんうち) まんすけ)。 == 来歴 == 1892年4月1日に青森県で生まれる。身体は小さいが無類の相撲好きで、1910年の夏に大相撲の巡業が弘前へ来た際に、土俵上にいた綾川五郎次の颯爽たる姿に憧れ、角界入りを決意した。そして1911年に周囲の忠告・静止を振り切って上京し、若松部屋を訪問して入門を志願したが、あまりの小さい身体に一度は唖然とされたが、熱心さに根負けした若松が「暫くは置いておこう」と入門を許可、1912年1月場所で初土俵を踏んだ。 小兵ながら腕力と足腰が強く、筈押しを始めとする独特の技を仕掛けて相手を倒す取り口で出世し、1918年5月場所で新入幕を果たす。この場所は4勝5敗1分と負け越したにも関わらず番付が上がり、1919年1月場所では8勝1敗1分、1920年1月場所では鳳谷五郎から金星を獲得した。その後は小結(1922年1月場所)、関脇(同年5月場所)昇進を果たし、一度平幕に陥落するもすぐ関脇に戻り、1924年5月場所では9勝2敗の好成績で大関に昇進した。この間に兄弟子・八甲山純司と共に若松部屋から離脱、八甲山は独立して高島部屋を創立させたが、大ノ里は湊川部屋へ移籍した。しかし、湊川部屋所属時に八甲山から殴られて負傷したため、出羽海部屋へ再移籍した。大関時代は優勝こそ無いものの立派に大関を務め、向上心を失うことなく熱心に稽古に取り組む姿や温厚な性格、若手力士に対する厳しくも熱心な指導によって「相撲の神様」と呼ばれ(命名したのは山本照)、多くの力士から人望を集めた。あるとき飲みに行った際、当時付け人だった幕下時代の綾櫻由太郎と関取と付け人の役を代わって存分に飲ませ、奮起させたというエピソードがある。 しかし、相手力士の研究から小兵ゆえの弱点を突かれ、1929年以降は6勝5敗の成績が急増、1931年5月場所と同年10月場所では4勝7敗と負け越した。その直後、1932年1月6日に勃発した春秋園事件では盟主となって日本相撲協会を脱退、関西角力協会で土俵を務めたのち、1935年に引退した。引退後は大の里 萬助として取締や頭取を務めたが、1937年12月には関西角力協会の解散によって苦労から肋膜を患い、愛弟子の帰参を見届けてから、1938年1月22日に満州・大連の赤十字病院で死去、。 大ノ里の訃報の翌日、出羽海部屋に大ノ里から最後の手紙が届いた。その手紙には、出羽海部屋に帰参した自分の愛弟子を死の床でも気遣い激励する内容で、愛弟子たちは慟哭したという。1960年8月1日、故郷・青森県藤崎町の鹿島神社境内に記念碑の除幕式が行われた。 自身と共に若松部屋で初土俵を踏み、後に共に湊川部屋預かりとなった八甲山純司との不仲説が囁かれていた。当時の湊川部屋(師匠は元関脇・綾浪)の閉鎖に際して自身が出羽海部屋への移籍となったのに対して八甲山が高島部屋への移籍となった際にも不仲が理由と唱えられたほどである。〔『相撲』2012年4月号 107頁〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大ノ里萬助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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