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大中臣諸魚 : ミニ英和和英辞書
大中臣諸魚[おおなかとみ の もろな]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [しょ]
  1. (pref) various 2. many 3. several 

大中臣諸魚 : ウィキペディア日本語版
大中臣諸魚[おおなかとみ の もろな]
大中臣 諸魚(おおなかとみ の もろな、天平15年(743年) - 延暦16年2月21日797年3月23日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿右大臣大中臣清麻呂の四男。官位正四位上参議
== 経歴 ==
宝亀2年(771年皇后宮少進に任ぜられたのち、同年7月に右衛士大尉に転じ、宝亀6年(775年中衛将監を経て、宝亀7年(776年)従五位下・衛門員外佐に叙任される。その後も、宝亀8年(777年)衛門佐、宝亀10年(779年)中衛少将、宝亀11年(780年右衛士佐と武官を務める一方、備前介下野守と地方官を兼ねている。
桓武朝に入ると、天応2年(782年少納言と文官に転じる。桓武朝では長岡京遷都を担当し、延暦3年(784年)6月に中納言藤原種継らとともに造長岡宮使に任ぜられ、同年11月には遷都に関連して松尾神社乙訓神社に派遣されている。
のち、延暦4年(785年右中弁左兵衛督と文武の要職を兼ねる一方で、延暦2年(783年)従五位上次いで正五位下、延暦4年(785年)正五位上、延暦6年(787年従四位下と急速に昇進し、延暦9年(790年参議に任ぜられ公卿に列した。その後も延暦13年(794年)従四位上次いで正四位下と累進して、延暦15年(796年)正四位上に至り、議政官として左大弁・近衛大将を兼ねた。
なお、延暦8年(789年)以降神祇伯も兼任し、延暦10年(791年神宮放火されたことの謝罪、延暦13年(794年)蝦夷征討祈願を目的に伊勢神宮に派遣されて幣帛奉納している。また、延暦11年(792年)母・多治比子姉が卒したが、これに先だって、中臣氏で神祇伯を務める者は、天照大神に仕える神主であることから、代々近親者の服喪のために解官されることがない旨、諸魚は朝廷に申請していた。しかし、諸魚が葬儀に携わらないといっても、そのまま神事に供奉してはならないとして、法令通り官を辞して喪に服すよう勅令が出されている。
延暦16年(797年)2月21日卒去享年55。最終官位は参議左大弁近衛大将兼神祇伯正四位上。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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