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大ノ浦 一廣(おおのうら かずひろ、本名:水木 一廣(みずき かずひろ)、1925年10月21日-1987年3月26日)は、秋田県能代市出身で、花籠部屋(入門時は二所ノ関部屋)に所属した大相撲力士。1950年代から1960年代にかけ、十両・幕内力士として活躍した。現役時代の体格は171cm、99kg。最高位は西前頭16枚目(1957年9月場所)。得意手は左四つ、投げ、二枚蹴り、足癖など。 == 来歴 == 若い頃から地元の素人相撲で活躍していたが、1947年秋に上京し、二所ノ関部屋へ入門。同年11月場所で初土俵を踏んだ。 同場所では番付外で全勝し、途中からは新序に昇格して相撲を取った。そこでも勝ち越したので、翌年5月場所の番付では序ノ口を飛び越して、序二段の地位に四股名が載った。 当初から四股名は、「大ノ浦」であった〔取的時代には「能代海」や「水木」の他、「早風」と名乗っていた事もある。現役晩年は、最終場所となった1960年5月場所を除き、「大乃浦」の名で取っていた。〕。初土俵の同期には、後の前頭・芳野嶺や同・神生山らがいる。 22歳で大相撲の世界に入った水木(大ノ浦)だったが、素人相撲出身ながら相撲経験が豊富だった事もあり、十両2場所目の1951年5月場所までは負け越しの場所もなく(ただし、五分の成績の場所はある)順調に出世した。しかし、怪我などもあって1953年1月場所で幕下に陥落し、暫くはこの地位に定着してしまった。 1952年、同郷の兄弟子・大ノ海(元前頭3)が引退後に創設した芝田山部屋(後、花籠部屋に改称)へ移籍。同じく兄弟子で後に横綱に栄進する若乃花(当時は「若ノ花」)との猛稽古でしっかり鍛えられた事によって、1955年より再び出世街道を歩み出した。 同年9月場所で十両復帰を果たすと、4場所連続の勝ち越しでこの地位を突破し、1956年9月場所にて新入幕を遂げた。もうすぐ31歳になろうという年齢で、漸く叶えた入幕の夢であった。 体重100kgに満たない小兵力士であったが、愛嬌のある風貌とユーモラスな性格で、当時の花籠部屋のムードメーカー的役割を果たした。幕内には通算6場所在位したが、大勝ちが無かった事もあって上位への進出は果たせずに終わっている。 1958年1月場所以降は幕内に返り咲けず、幕下に陥落して初日から休場した1960年5月場所を最後に34歳で引退し、年寄・二子山を襲名。以後は花籠部屋付きの親方として、後進の指導に努めた。 その後、1962年5月より年寄・音羽山に名跡変更したが、翌年11月場所限りで元小結・若ノ海に名跡を譲り渡して角界から離れた。 以降は、故郷で兄の事業を手伝った後、造園業に携ったという。 1987年3月26日、逝去。61歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大ノ浦一廣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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