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大久保 公忠(おおくぼ きみただ)は、高松藩の大老。大久保主計家初代。 == 生涯 == 寛永6年(1629年)、水戸藩家臣200石大久保公吉の次男として生まれる。実は、藩主徳川頼房の庶子で、頼房の侍女であった母が、身篭ったまま大久保公吉に嫁ぎ生まれた、とする説がある(「英公外記」)。寛永18年(1641年)、下館藩主であった松平頼重に小姓として十両五人扶持で仕える。 寛永19年(1642年)、頼重が讃岐高松に転封されると、父公吉と共に同行し、二十両十八人扶持を受ける。翌寛永20年(1643年)、知行300石となる。正保元年(1644年)、1000石加増されて1300石となり、老中に任ぜられる。正保2年(1645年)、加増されて2000石となり、17歳で大老に任ぜられる。大老は、家老の上に位置する藩内の最高位である。藩政当初は、肥田、彦坂、大久保の3家から大老が出ていたが、後に大久保家が独占することとなる。明暦2年(1655年)、加増されて禄高3000石となる。延宝元年(1673年)、藩主頼常の家督相続御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川家綱に拝謁する。 延宝6年(1678年)、隠居して家督を嫡男の公卓に譲る。隠居領として1000石を賜り、不徹と号した。公卓は藩主頼常の養女(頼重の娘)と結婚し、大老となる。次男守羨も500石を賜り家老となった。元禄10年(1697年)、公卓が継嗣無きまま先立って没し、その後を守羨が相続する。守羨の跡は子の公敦が継ぎ、藩主頼豊の娘と結婚、大老となる。公敦の跡を継いだ新蔵(公明)の夭折により公忠の血統は断絶し、その跡は藩主頼恭の四男頼起、同七男頼裕が家名を相続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大久保公忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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