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大久保 忠教(おおくぼ ただたか)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。徳川氏家臣・大久保忠員の八男。通称の彦左衛門で有名。幼名は平助。一時忠雄とも名乗った。兄に大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠為ら。子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られる。 == 生涯 == 永禄3年(1560年)、三河国上和田(愛知県岡崎市)に誕生。徳川氏に仕え、17歳のときに兄・忠世と供に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦し、高天神城攻めで岡部元信を討ち、天正13年(1585年)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。 天正18年(1590年)、小田原征伐の後、主君・徳川家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥忠隣が相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでも家康本陣で槍奉行を務め活躍した。 このころ、次兄の忠佐は駿河国沼津城主となって2万石を領していたが忠佐の嫡子・忠兼が早世してしまったため、弟の忠教を養子として迎えて後を継がせようとしていた。しかし忠教はこの申し出を「自分の勲功ではない」と固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。 続けて忠隣が失脚、改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田に1000石を拝領し復帰した。慶長19年(1614年)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。このころ更に1000石を加増されている。 寛永12年(1635年)ごろから常陸国 鹿嶋に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭したようである。寛永16年(1639年)に80歳で死去。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。 法名:了真院殿日清。墓所:愛知県岡崎市竜泉寺町の海雲山弘誓院長福寺。京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺および東京都港区白金の智光山立行寺(忠教によって建立されたため、通称を「大久保寺」という)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大久保忠教」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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