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大久保 教隆(おおくぼ のりたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。江戸幕府旗本。小田原藩主・大久保忠隣の三男。 == 生涯 == 天正14年(1586年)、徳川氏の家臣・大久保忠隣の三男として誕生。 少年の頃から徳川秀忠に仕え、慶長5年(1600年)の会津征伐の際は宇都宮まで同行。その後、関西で石田三成が挙兵したため、中山道を通り信濃国耳取(現・長野県小諸市耳取)まで秀忠に同行するが、若年であったため戦うことなく江戸に帰された。慶長10年(1605年)、従五位下右京亮に叙任。慶長11年(1606年)、領地3000石を与えられ、御小姓組の番頭に任ぜられた(同時期の小姓組番頭には水野忠元、井上正就、板倉重宗、日下部正冬、成瀬正武)。 ところが、慶長19年(1614年)、父・忠隣が改易に処された際、教隆も連座して天海に預けられ、その後川越藩の酒井忠利の元で蟄居処分となり、元和3年(1617年)には盛岡藩の南部利直の元に移された。 寛永5年(1628年)、赦免されて旧知を取り戻す。寛永9年(1632年)、御書院の番頭に任ぜられた。寛永10年(1633年)には3000石を加増されて、合計6000石を領する旗本寄合となった。寛永12年(1635年)、大番頭に任ぜられた。 寛永20年(1643年)、58歳で死去。家督は長男の大久保教勝が継いだ。なお、次男の忠朝は寛文10年(1670年)に本家の大久保忠職の養子となり、老中になった上、忠隣の改易で失った旧領小田原への復帰を果たした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大久保教隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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