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大久保 春野(おおくぼ はるの、弘化3年8月18日(1846年10月8日) - 1915年(大正4年)1月26日)は、日本の陸軍軍人、華族。朝鮮駐剳軍司令官、第3師団長、第6師団長等を歴任する。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級男爵。 ==経歴== 大久保氏は古代孝昭天皇の子孫で、和邇部臣の流れにある。古くは西尾氏を称していた。相州小田原藩主大久保氏は同族。大久保家は代々式内社である県社淡海国玉神社(静岡県磐田市)祠官家で、父の大久保忠尚もやはり宮司であった。春野は忠尚の長男として生まれ、遠州報国団として父と共に戊辰戦争に従軍する。 維新後、明治3年(1870年)5月、大阪兵学校内幼年校生徒となる。同10月からフランスに留学し、1875年(明治8年)7月帰国。陸軍省七等出仕に命ぜられる。1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少佐に任官され陸軍省第2局第5課長、1879年(明治12年)1月、第2局第1課長に移り、同10月呼称変更となり人員局歩兵課長となる。1880年(明治13年)5月に熊本鎮台歩兵第14連隊大隊長となり、1882年(明治15年)12月、参謀本部管西局員に移る。1885年(明治18年)、中佐に進み7月24日から参謀本部編纂課長兼第2局第3課長に就任する。1886年(明治19年)3月19日、歩兵第12連隊長に移り、1889年(明治22年)、歩兵大佐に進級する。1890年(明治23年)6月13日、茨木惟昭の後を受け陸軍戸山学校長に就き、1891年(明治24年)6月15日、陸軍士官学校長に移る。 翌年11月24日、第2師団参謀長に就任し、1894年(明治27年)には陸軍少将に任命され歩兵第7旅団長を補され、日清戦争に出征する。日清戦争では海城方面守備隊司令官、鳳凰城方面守備隊司令官を務め、続く台湾出兵に参加し1897年(明治30年)12月、近衛歩兵第1旅団長に就任する。 1900年(明治33年)に陸軍中将に進級し教育総監部参謀長(後の教育総監部本部長)を経て1902年(明治35年)5月5日、第6師団長に親補され、第2軍隷下として日露戦争に従軍する。沙河会戦を経て第4軍隷下に移り奉天会戦に参加する。戦後、功により1906年(明治39年)4月1日、勲一等旭日大綬章及び功二級金鵄勲章を受章、同7月6日、第3師団長に移り、1907年(明治40年)9月21日、男爵を授けられ華族に列せられる。 1908年(明治41年)8月7日、陸軍大将に進み同12月から韓国駐剳軍司令官に就任する。1910年(明治43年)10月、先の韓国併合に伴い呼称変更され朝鮮駐剳軍司令官。1911年(明治44年)8月18日、後備役〔『官報』第8449号、明治44年8月19日。〕。1915年(大正4年)1月26日薨去。特旨により従二位に叙される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大久保春野」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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