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大井の方(おおいのかた、明応6年11月17日(1497年12月10日) - 天文21年5月7日(1552年5月30日))は、戦国時代の女性。甲斐国守護である武田信虎の正室〔信虎の生年については明応3年(1494年)とされているが、近年は明応7年とする説も提唱されている(秋山敬「武田信虎の生年について」『武田氏研究』35号、2006)。なお、信虎には側室として甲斐国衆今井氏の娘西昌院(御西様)などがいる〕。武田信玄(晴信)らの母。大井夫人とも言われ、実名は不詳。剃髪後は武田氏の居館である躑躅ヶ崎館北の御隠居曲輪に移ったことから、御北様と呼ばれる(『甲斐国志』による)。瑞雲院殿。 == 略歴 == 甲斐西郡の国衆で、武田氏一門でもある大井信達の娘として生まれる。甲斐守護武田氏と国衆との抗争が続いていた室町・戦国期のおいて、西郡国衆の大井氏は駿河国の今川氏と結び信直(信虎)との抗争を続けていたが、永正14年(1517年)に信達は信虎と和睦とし、信虎の正室として嫁ぐ(大井夫人の輿入れは人質的性格の強い政略結婚であったと考えられている〔大井氏ら甲斐国衆と信虎の抗争については黒田基樹「甲斐の統一へ」『山梨県史』通史編2中世〕。信虎との間には永正16年に生まれた長女〔長女は今川義元の正室である定恵院で、甲相駿三国同盟の一環となる甲駿同盟締結のため今川家に嫁ぐ。天文19年(1550年)に死去。〕をはじめ、嫡男晴信(信玄)〔嫡男晴信は大永元年11月3日出生で、同時期には駿河今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、大井夫人は躑躅ヶ崎館の詰城である要害山城に待避し、同所で晴信を出産したという(「高白斎記」)。〕、信繁、信廉(逍遙軒信綱)を産んでいる〔また、晴信の弟で信繁の兄、戌千代(伊春)の実母ともされる(廣瀬広一『武田信玄伝』)〕。なお、大井氏では嫡男信業らが武田一門として家臣団に加わって三弟と六弟は武藤姓を名乗っている。 のちに岐秀元伯を大井氏の菩提寺である長禅寺に招き、晴信に『四書五経』『孫子』『呉子』等を学ばせたという〔柴辻俊六『武田信玄合戦録』〕 天文10年(1541年)6月14日に信虎が晴信によって駿河に追放されるが〔『高白斎記』、『山梨県史』資料編6中世3(記録・奥書)所載〕、後も信虎に随行することなく甲斐に留まっている。国主となった晴信は信濃侵攻を開始するが、天文17年(1548年)2月14日には上田原の戦いにおいて大敗するが、敗戦後にも在陣を続けた晴信は大井夫人の説得を聞き入れて帰還したという(『高白斎記』)。 また、時期は不詳だが塩山向嶽庵や大善寺への寄進を行っている。天文21年(1552年)5月7日に死去、享年56(『高白斎記』)。法名は瑞雲院殿月珠泉大姉。墓所は巨摩郡大井郷(南アルプス市、旧中巨摩郡甲西町鮎沢)の長禅寺(古長禅寺)であるが、後に長禅寺は信玄により甲府へ移されている。 信廉は武将画家とも知られ甲府大泉寺所蔵の信虎の肖像を書き残しているが、甲府長禅寺所蔵の大井夫人肖像(「絹本着色武田信虎夫人」、重要文化財)は没後の一周忌に信廉によって描かれた供養像で、画中には大井夫人の和歌と信虎開祖の大泉寺住職の賛文が寄せられている〔信廉の画業・大井夫人肖像等の作品については『山梨県史』文化財編、井澤英理子「絵画」『山梨県史』通史編2中世〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大井の方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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