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大井川鉄道モハ1900形電車 : ミニ英和和英辞書
大井川鉄道モハ1900形電車[くるま]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [てつ]
 【名詞】 1. iron 
鉄道 : [てつどう]
 【名詞】 1. railroad 
: [けい, かたち, ぎょう]
  1. (suf) shape 2. form 3. type
電車 : [でんしゃ]
 【名詞】 1. electric train 
: [くるま]
 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel 

大井川鉄道モハ1900形電車 ( リダイレクト:小田急1900形電車 ) : ウィキペディア日本語版
小田急1900形電車[おだきゅう1900がたでんしゃ]

小田急1900形電車(おだきゅう1900がたでんしゃ)は、小田急電鉄がかつて保有していた電車の1形式。
1948年に、東京急行電鉄大東急)から小田急電鉄として分離独立後、初の新造車両として1949年に製造された車両である。当初は3扉ロングシートの1900形が3編成と、2扉セミクロスシートの1910形が2編成登場した。1910形は1950年に形式を2000形に変更し、1952年まで特急形車両として運用された。なお、この形式から「小田急ロマンスカー」の愛称が広まったことから、「初代(小田急)ロマンスカー」は当形式を指すのが妥当である。だが、社会的な認識として当初より特急専用車両として流線型を使用し、ビジュアル的に21世紀時点でも「特異」な3000形SE車が広く知られる「小田急ロマンスカー」の「初代車両」と一般に紹介されることが多い。
1953年には3扉ロングシート車が増備され、1956年には2000形を3扉ロングシートに改造した上で1900形に編入、同時に1900形も含めて2両編成に変更した。1960年には1500形の更新時に1900形と同様の車体を新造の上1900形に編入した。さらに1961年から1962年にかけて、一部の車両は4両編成化されたが、車両の大型化のために主電動機(モーター)を4000形に提供することになり、1976年9月に全車両が廃車となった。
制御装置から趣味者の間および会社内部においてABF車〔ABFは三菱電機の直流電車用自動加速形制御装置の形式名で、本来は三菱電機の提携先であるアメリカウェスティングハウス・エレクトリック (WH) 社製制御器の形式名に由来し、A:Automatic acceleration(自動加速) B:Battery voltage(低電圧電源) F:Field Tapper(弱め界磁制御)の各機能に対応することを示す。〕と呼称されていた。
本項では、戦後の小田急初の特急ロマンスカーとして登場した1910形電車についても記述する。また、本項では以下、「2000形」と記述した場合は1950年12月に1910形から2000形(初代)に形式変更され、1956年に1900形に編入された車両を表すものとする。
== 登場の経緯 ==
1948年10月に1600形により再開された「週末温泉特急」は、予想を上回る好成績となった〔『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション1 小田急電鉄1950-60』p58〕が、ロングシートにシートカバーをかけて通路に灰皿を置いただけであった〔『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p10〕。このため、新形車両を製造するにあたっては、特急用にふさわしいクロスシート車を要望する意見があった〔。
一方、当時の日本経済は敗戦後の粗鋼生産の低迷等で極端な物資不足の状況にあり、かろうじて運輸省モハ63形の私鉄各社への割り当てを強要せずとも済む程度には状況は回復しつつあったが、依然として各種機器や部材の調達・生産には困難が伴う状況にあった。
そこで運輸省は車両や機器のメーカー、それに私鉄各社と「郊外電車設計打合会」を開いて今後の車両製作について討議した。
その結果、各部材の寸法や形状について徹底した規格化を行って生産上の非効率と部材の納入遅延を最小限に抑制すべく、私鉄各社の車両限界等を考慮した上で高速電車についてはA型とB型に大別される最大公約数的な規格型車両設計案を1947年に運輸省で制定し、搭載される機器についてもメーカー各社の製造能力や得意とする技術などを勘案の上で、ユーザーである電鉄各社の要望も考慮して、馬力ごとに適応する既存品を標準機種として認定し生産の効率化を図ることとした。
こうして、1947年に俗に運輸省規格型電車と呼ばれるこれらの仕様を満たす車両を、前年にモハ63形が受け入れ不能であった各社線から優先的に割り当てて新造を認可する、という方針が定められた。
これにより、主として車体長や車体幅の制約からモハ63形の導入が困難であった大都市近郊の私鉄各社線の大半が久々の新造車投入の恩恵を受けたが、1947・1948年度の2年間に実施された割り当てで各社の輸送状況が一応の改善を見たことから、1948年度の後半よりモハ63形を受け入れた各社についてもこの規格型電車の導入が認められるようになった。
この際、最優先で認可された〔1948年12月に820形が神戸の川崎車輛で竣工している。〕のは山陽電気鉄道であり、これに続いたのが小田急電鉄であった。
これは、資材難が最悪の状況にあった1946年の最も困難な時期に運輸省の方針に忠実に従ってモハ63形の割り当てを受け入れた〔しかも、いずれも従来は車体長14mから16m級の車両を運行しており、その受け入れに当たっては大規模な地上設備の改修を要した。中でも山陽が優先されたのは、それに加えて受け入れ線区の半分が路面電車上がりで、架線電圧軌間の相違、それに変電所の容量不足を解決する、というほとんど新線建設に等しい過酷な受け入れ作業が必要であったことに理由があろう。〕これら2社に対する報奨の意味合いがあったと考えられる。これには、粗鋼生産量の回復に代表される日本の工業界の急速な復興に伴う鉄道車両生産にかかわる周辺状況の改善も背景にあったが、これら両社は規格型とは言いながらともに当時他社には認められなかった2扉クロスシート車の新造が特別に認められており、当時の運輸省はこれら2社を自らの政策による東西の私鉄の輸送状況改善のモデルケースあるいはシンボル的存在と考えていたとみられる。
こうした事情から運輸省規格A'型に準拠して設計されたのが本形式である。編成中間に挿入されるサハ1950形については規格設計に従いつつ戦災省電からの台枠流用で製造された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「小田急1900形電車」の詳細全文を読む




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