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北条 宣時(ほうじょう のぶとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府連署。大仏 宣時(おさらぎ のぶとき)とも称される。 == 略歴 == 父は大仏流北条氏の祖である北条朝直。初めは時忠(ときただ、通称は武蔵五郎)と名乗っていた〔〔〔宣時以後の宗宣―維貞―高宣が、時宗―貞時―高時の偏諱を受けているように、大仏流北条氏の当主は、将軍を烏帽子親として一字を与えられる得宗家や赤橋流北条氏の当主に対し、金沢流北条氏の当主とともに、それよりも一ランク低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたとの指摘がなされており(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、P.182 脚注(27)))、「時忠」の名乗りもその方針に従って得宗家当主(=北条時頼?)から「時」の字を与えられたものである可能性がある(金沢流では実時が泰時、時方(顕時)が時宗を烏帽子親として「時」の字を受けていることが『吾妻鏡』から分かっている)。但し、「時」の字は北条氏の通字であって一族内でも共有されることが多いため、烏帽子親についての明確な史実が判明していない宣時の場合だと、特別得宗家からの偏諱と捉え難いところもある(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.19)。〕が、文永2年(1265年)6月11日に引付衆になった段階では宣時に改名していたという〔。 建治元年(1277年)引付頭人になる。弘安10年(1287年)に執権北条貞時の連署を務める。その後、陸奥守、遠江守などを兼任。正安3年(1301年)に出家。 『徒然草』第215段に現れる、若き日の宣時が最明寺入道(北条時頼)の邸宅に招かれ、小土器に残っていた味噌を肴に酌をかわしたというエピソードは、当時の鎌倉武士の質素な生活を伝えるものとしてよく知られている。 和歌にも優れており、『続拾遺和歌集』、『新後撰和歌集』、『玉葉和歌集』、『続後拾遺和歌集』、『風雅和歌集』、『新千載和歌集』、『新拾遺和歌集』、『柳風和歌抄』、『続現葉和歌集』などの歌集に入首している。 細川重男は霜月騒動の背後に宣時の影響があり、平頼綱と結託して反安達勢力を煽動し、安達泰盛誅伐に関与していたことを指摘している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条宣時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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