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大伴 牛養(おおとも の うしかい、生年不詳 - 天平感宝元年閏5月29日(749年7月18日))は、奈良時代の公卿。名は牛飼とも記される。常道頭・大伴吹負の子。子に百代がいる。官位は正三位・中納言。 == 経歴 == 和銅2年(709年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵し、翌和銅3年(710年)遠江守に任ぜられる。のち、和銅7年(714年)従五位上、養老4年(720年)正五位下と昇進する傍ら、左衛士督を務めた。 その後、神亀6年(729年)に発生した長屋王の変の影響を受けたためか、叙位任官の記録がない時期があるが、天平9年(737年)藤原四兄弟が相次いで没してまもなく正五位上に昇叙される。以降聖武朝半ばより急速に昇進し、天平10年(738年)従四位下・摂津大夫を経て、天平11年(739年)参議に任ぜられ公卿に列す。天平15年(743年)従四位上、天平16年(744年)兵部卿。また、この間の天平14年(742年)紫香楽行幸に際して平城留守司、天平16年(744年)難波行幸に際して恭仁宮留守司と、聖武天皇の行幸に際して旧京の留守役を務めている。天平17年(745年)正月の紫香楽宮遷都に際して、急な造都であったことから本来その役割を担うべき石上・榎井両氏を召集できなかったため、衛門督・佐伯常人とともに大楯と槍を宮の門に立てる役割を務め、まもなく三階昇進して従三位に叙せられた。天平18年(746年)山陽西海道鎮撫使、天平21年(749年)4月に正三位・中納言に叙任されるが、同年〔4月14日改元して天平感宝。〕閏5月29日薨去。最終官位は中納言正三位。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大伴牛養」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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