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大伴 益立(おおとも の ますたて、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。従三位・大伴古慈悲の子。官位は正五位上・兵部大輔、贈従四位下。 == 経歴 == 天平宝字4年(760年)陸奥国の雄勝城と桃生柵の築城が賞され際、鎮守軍監として艱苦を顧みず再征したとして特に褒賞され従六位上から3階の昇叙を受け従五位下となった。天平宝字5年(761年)陸奥鎮守副将軍・鎮国驍騎将軍(中衛少将)に任ぜられ、天平宝字6年(762年)陸奥介を兼ねた。 神護景雲元年(767年)正月に2階昇進して正五位下に、10月には伊治城築城の功労により正五位上に叙せられる。のち、兵部大輔・式部大輔などを歴任する。 称徳天皇最晩年の神護景雲4年(770年)5月に肥後守と再び地方官に転じ、宝亀2年(771年)大宰少弐に任ぜられる。宝亀6年(775年)には遣唐副使に任ぜられるが、翌宝亀7年(776年)11月に遣唐大使・佐伯今毛人が唐への出発時機を逸し帰京して節刀を返上した際に、益立は遣唐判官・海上三狩とともに大宰府に留まって出発の時機を待つこととした。この対応は世間の人々に称賛されたというが、結局同年12月には遣唐副使を解任され、小野石根・大神末足に取って代わられた。益立は遣唐副使を解任されて間もない、宝亀8年(777年)正月に権左中弁、宝亀9年(778年)右兵衛督と京官に復帰した一方、小野石根は益立に代わって宝亀8年(777年)に唐に渡るが、唐からの帰途で遭難し没している。 宝亀11年(780年)伊治呰麻呂の乱が発生すると、従四位下・征東副使兼陸奥守に叙任され、乱の平定のため遠征するが、駐留したまま進軍せず戦機を逸してしまう。さらに新たに征東大使に任ぜられた藤原小黒麻呂が、陸奥国に到着後速やかに進軍して奪われた諸城塞を回復したことから、益立は進軍しなかったことを譴責され、天応元年(781年)に従四位下の位階を剥奪され正五位上に叙せられた。延暦2年(783年)再び兵部大輔に任ぜられるが、その後の消息は不明。 承和4年(837年)になって、益立が讒訴を受けて位階を剥奪されたとして、子の野継が冤罪を訴えたところ認められ、益立は50年以上ぶりに本位である従四位下の贈位を受けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大伴益立」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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